2015年8月15日土曜日

イスラエル人の日本定着

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:361~368頁

 第6章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 イスラエル人の日本定着

  第16章のイスラエル人と月氏でアッシリアによって

 強制移住させられたイスラエル人の後裔が

 月氏あるいは大月氏であるとの見解を述べ、

 彼等が絹商人として活躍し、後にアラビア海へ出て

 海洋交易商人へ変身し、

 第10章天毒とセリカで

 明らかにした絹の生産地セリカである漢大陸の東海岸沿岸、

 韓半島、倭である日本列島へ渡来したものと述べた。

 この月氏はそれらの地域で秦氏とその呼称を代え、

 中央アジア獲得した絹産業の技術を基礎に活躍することとなる。

 特に日本へ渡来した後の様子は以後の説明で明らかにするが、

 そこでは彼等がイスラエル人であった文化を継承し、

 それが現在にまで色濃く保たれていることが明白となる。

 その確認の上に立って秦氏が韓半島において

 確固たる勢力であったことを実証できるのである。

  『日本書紀』の応神天皇14年に

 「自分の国の120県の民を率いて帰化した」と

 「弓月君」が「百済より来帰」したことを記している。

  京都市右京区太秦にある

 大酒神社は秦氏の奉祭する神社として有名である。

 同社は延喜式神名帳に「大酒神社元名大群神」と載る

 神社であるが、

 この大群神をもってダビデ王DVD(David)の名であるとの

 見解を出した学者もいたが、

 それは妥当でなくインドの女神デーヴィであることを

 第1章祝祭「淀姫と矢保佐神社」において述べた。

 しかし、秦氏は同社の信奉に強く係わった。

 その理由を推測すると、

 その神名がダビデに近似していたことを、

 同社が毎年9月12日に開催する

 「牛祭」による牛と係わりがあることによると思われる。

 月氏の信仰の象徴とする三日月(弓月)が

 牛角であるからとの見解は既に述べた。

 弓月はクルジャ kulja で、

 ヘブライ語の GLY-TsRh (glil-tirh) 

 「円筒-骨」(骨の円筒)で「角」を表わす用語が祖語である。

 大群(デーゲィ)神の神君シヴァ神の乗物は牡牛であり、

 その額に三日月を象徴として付ける神である。

 秦氏は牛頭天王と呼ばれる須佐之男命を祭る

 八坂神社の奉祀にも係わることになる。

  大国神社のある葛(かど)野郡の「カド」は

 創世記第30章にあるヤコブの子が

 ガド Gad を祖とするイスラエルの

 ガド族の名に係わると考えられる。

 大月氏の一王国から興ったクシャン朝を

 中央アジアに成立させた王はカドフィセスといい、

 カド名を含む。

 京都府、大阪府の秦氏の勢力圏内に

 カド、カタを付した地名が多い。

 またクルジャを祖語とする地名もある。

  延喜式神名帳葛野郡には

 「葛野坐月読神社名神大松尾末社」とあり、

 西京区山添町に鎮座する同名社に比定されていて

 松尾大社の末社であることから秦氏が係わったとみられる。

 その祭神月読尊は『日本書紀』で

 保食神を殺戮して切り刻んだ

 月読尊の別称でハフリを彷彿させるが、

 またの別称が月弓尊であり、弓月と同義である。

 神名帳山城国綴喜郡にも「月読神社 大」(京田辺市大住)及び

 「樺井月神社 大」(京都府城陽市水主宮馬場境内)がみられる。

 ヘブライ人が「供犠の人々」であることからすれば

 月読神との結びつきは理解できる。

 「月読」は「ガットク」と訓め「ガド」の音写ともみられる。

  西京区の隣りは南区となり久世町がある。

 和名類聚抄に訓世郷、『日本後紀』弘仁6年の条に国背郷、

 また古くは万葉集巻11 

 旋頭歌に

 開木代 来背社 草勿手折 己時 立雖榮 草勿手折

 山背の 久世の社の 草な手折りそ 我が時と

 立ち栄ゆとも 草な手折りそ 

 [やましろの] くせのやしろの くさなたをりそ わがときと 

 たちさかゆとも くさなたをりそ

 [注](柿本朝臣人麻呂之歌集出)

 「開木代 来背」とみえる地名で、

 祖語は「クルセ」であったとみられ、

 クルジャの転訛で弓月に係わる。

 上久世町に現在名綾戸国中神社が鎮座している。

 神名帳乙訓郡に「国中神社」と記載されている古社である。

 同社は綾戸神社と国中神社が合祀されているので

 このように呼ばれる。

 綾戸神社は平安時代の天暦年間(947~957)に

 改称されるまで大井神社といった。

 現在の祭神は

 大綾津日神、大直日神、神直日神となっているが、

 綾戸は久世域内に大藪町があり、「アヤベ」の訓とみられる。

 綾戸の漢字の字義は、「綾」が「絹織物」であるから、

 「絹織物職人」、大綾・大藪の「アヤベ」は

  AYKhR の音写で「農夫」を表わし養蚕農を意味している。

 大藪町はかって単に藪といわれ大津川の渡しがあった。

 因みに「ヤブ」には YFH で「美しい、綺麗、立派な」の字義で

 絹の輝く様子を表わしているかもしれない。

 大阪府池田市に綾羽町があるが、この地名も同義である。

  さらにその西側向日市に

 寺戸(てらと)町と物集女(もずめ)町がある。

 物集女は新撰姓氏録によると

 秦氏の一族物集氏に因む地名であり、

 和名類聚抄に「乙訓郡物集郷・訓毛臣女」とある。

 女は「迷神」の訛ってつけられたものらしい。

 この「モズ」はヘブライ語の「絹」を表わす

  MShY(meshi)の転訛と考えられる。

 同地には神名帳に載る「簀原(すばら)神社」があったが、

 その神社名はヘブライ語の「月」を表わす SHR(suhar)えあるが、

 現在廃社となっている。

 また寺戸町名は平安後期から史料にみえる地名であるが、

 これは「ジド」でヘブライ語の「絹」を表わす用語

 ZYYD(ziyd)の音写されたものであり、

 ZYYDは秦氏の居住地に重要な名称で、

 物集女と背景を同じくする。

  山城国乙訓郡の南は久世郡となる。

 久世郡の中心は現在の城陽市の久世辺りで、

 和名類聚抄に久世郡久世郷とある。

 こちらの久世もクルジャであるが、

 その北側にある平川のうちに平井神社があり、

 平井はヘブライの転訛であろう。

 久世の南の寺田(てらだ)、

 そのうちの久世郡の郡衙遺跡のある正道は

 ともにZYYDの転訛である。

 寺田の南に隣りする枇杷庄も平安時代からの荘園名であるが

 ヘブライの訛ったものである。

 その西側木津川沿いは水主(みぬし)で、

 延喜式神名帳久世郡に載る「水主神社十座」が鎮座しているが、

 水主はモーセが水を御する導師であったことを考慮すれば

 十座のうちにモーセを祭神として加えていただろうと思われる。

 神名帳の同社条には神名として

 「水主坐天照御魂神、水主坐山背大国魂命神二座」と

 二神まで記されているが、その後者がヤハウェ神に関係する。

 詳説は後述される。

  大阪府交野市の京都寄り倉治には「織物(はたもの)神社」

 があり、

 秦氏の存在を示しているが、倉治はクルジャである。

 交野は和名類聚抄などに

 肩野との表記がみられる氏族名でもあるが、

 葛野と由来を同じくしていると考えられる。

  大阪府池田市綾羽は、古くは河辺郡に属した。

 神名帳河辺郡に七座のうちに興味深い神社が並んでいる。

 伊佐具(いさぐ)神社、伊居太(いこた)神社、多太(ただ)神社である。

 伊佐具はアブラハムの子イサク YTsHK、

 伊居太はイサクの子ヤコブ YIKB、

 多太はヘブライ国の創健者ダビデ DVD のことである。

 伊佐具神社は現在尼崎市上坂部字住堂に鎮座している。

 祭神は伊狭城入彦と伝えられているが、

 イサクを符合させたものであり、

 「入」はヘブライ語で「神」を表わす AL(Ael)とみられる。

 住堂は ZYYO である。

 隣りの若王子に伊居太神社も勧請されており、

 両社は対なのである。

 伊居太神社は既述の通り池田市綾羽が現在の鎮座地であるが、

 小坂田(現在の神津田)より配転されたとの社伝があり、

 祭神を穴織大神と記して「アヤハ大神」と称している。

 同市内室町の呉服神社を秦下社というのに対して

 秦上社と称している。

 穴織は『日本書紀』応神天皇37年及び41年

 阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)を

 呉に遣わして縫工女(きぬいめ)を求めた時の

 縫工女の名に当たる名であるが、

 穴織神社が別にあったことを考慮すると、

 二つの神社が合祀され、

 複雑になっているのが現状のようである。

 本来その祭神の性格が類似しているための

 合祀であったように思われる。

 ともあれ和名類聚抄における

 河辺郡秦上郷、秦下郷のあった地域で、

 新撰姓氏録に

 「摂津国諸蕃秦忌寸、太秦公宿禰同祖、功徳王之後也、

  又云秦人、秦忌寸同祖、弓月王之後也」とあるように

 秦氏の勢力が集まったことは明らかである。

 よって伊居太がヤコブであってもおかしくはない。

 ヤコブをヘブライ語の文字で表記すると YIKB で

 「イカブ」が本来の発音に近い。

  多太神社については兵庫県川西市多田院の多田神社を

 比定社とする向きもあるが、それは妥当せず、

 同市平野字宮山の多太神社を当該神社としなければならない。

 「多太」を延喜式神名帳に「タダ」訓んでいるが、

 地元ではこれまで「タブト」と呼び慣わしている。

 平野に隣りする矢問は「シモン」で

 ソロモン ShRHN の転訛とみられる。

 和名類聚抄には

 「河辺郡大神郷、訓於保無知」として

 神の訓をミワではなく「ムチ」にしている。

 多太神社の祭神は崇神天皇記で大物主命神の祭主として

 取り上げられた大田田根子で

 神社はその祖廟との伝承を持つが、

 「オホムチ」はオホナムチに通じる。

 その詳細は後に述べる。

  多太神社は、

 神名帳にもう一ヵ所大和国葛上郡のうちに記載されている。

 現在も御所市多田に鎮座している。

 同郡掖上は弓月君が最初に

 応神天皇によって封じられた土地である。

 その周囲には現在名であるが、

 城陽市久世にもある寺田や持田、小殿、粂と ZYYD を

 祖語とする地名が取り巻いており、

 多太がダビデ名であることを示唆している。

 川西市の多太神社もダビデ王の名によるものと考える。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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