2010年3月28日日曜日

五王の「倭」が九州発、四国経由で奈良へ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:7頁

この『隋書』と『唐書』に先立つ『宋書』を見ると、

通称『倭の五王』と呼ばれた王たちが君臨していて、

仁徳天皇以下の5帝だったことは、

もう疑いの余地がない。

彼等が自称した『名乗り』のトップは『倭』で、

これを従来のように日本列島全域のことだとすると、

続く百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓は、全て朝鮮半島の国々なのだから、

これも引っ括(くる)めて『朝鮮』または『韓』と表現しなければならないのに、

小国名を羅列していることになる。

この矛盾に気づくとこの「倭」は日本列島全域などではなく、

百済・新羅と同格の国名にすぎないとわかる。

なぜなら彼等は自ら「六国または七国諸軍事と自称しているが、

それは倭を他の諸国と同列に扱っている。

倭がかりに日本列島全域なら、

そこには首済・新羅クラスの酢は数十あるから、

「数十国諸軍事」と書いたはずなのだ。

しかもその倭は「奈良」のことでもなく彼等の本国、

大倭之国(うわしま)=宇和島を首都としていた四国地方だったことが、

続く中国正史『隋書』『唐書』の記事で完全にわかるのである。

また彼等が今の個人名のように使う名は

最も新しい占領国名で、

仁徳天皇の「讃」は讃岐。

履中天皇の「珍」は茅沼(チヌ)のことで、珍の時、

ようやく大阪湾を超えて大阪南帝を入手したという事実が鮮明にわかる。

奈良県へは最後の武による高市(タヶシ)(後の高市(たかいち))奪取が最初なのだ。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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