2016年5月30日月曜日

《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》➀

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1237~1251頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》

  埼玉件越谷市南部の大成町、川柳町、伊原、蒲生、

 とこの辺りには久伊豆神社が集中している。

 それに続く草加市の青柳、八潮市八俣、鶴ヶ曽根
 
 にも鎮座し、

 その南端は、西袋の氷川神社と通称されている

 氷川久伊豆合祀社である。

 その宮は柳の宮と呼ばれ、それによる同地名もある。

 「柳」は久伊豆神社の関係する地名であることは

 「久伊豆神社とお獅子様」で述べた。

 柳之宮の北には南後谷地区がある。

 越谷市の北後谷に対する南後谷である。

 同地は平安時代からの居住跡が

 発掘調査により確認されている。

 地区内にある八潮市立資料館2階には、

 紺屋(監染屋)の紹介展示が、二体の青銅製染工を

 据えつけるなど詳しくなされており、

 この地方で「染め」の紺屋業が

 盛んであったことを明示している。

 後谷が「コーヤ」で

 ヘブライ語のkogl(玉、球)を祖語とし、

 繭、生糸の加工を業とした人々を言う。

 その活躍の伝統を記録しているのである。

  同資料館に付属して「藤波邸」の旧家屋が

 文化財として保存されているが、

 その床の間に勇壮な木彫りの兜が置かれている。

 当館では単に「兜」と銘打っているが、

 本書は敢えて「牛角兜」と呼ぶことにする。

 というのも、実に太い牛角を備えた兜だからである。

 鎌倉彫の一木彫で、その製作年代は大正期、

 20世紀の初めで未だ100年を経ていないものだが、

 この牛角兜の持つ文化的価値は極めて高い。

 人類の霊あるいは神といった見ることのできない

 存在に対する信仰を意識し始めてからの

 1万年の重みを象徴しているからである。

 その高さは120㎝、幅もおよそ100㎝を超えている。

 基台となっている帽子状の部分の高さは50㎝四方、

 角の部分の長さが110㎝ある。

 左右の牛角の太さ(直径)は根元で15㎝余である。

 この牛角の祖型は

 野牛あるいは水牛と呼ばれる種の牡牛の角である。

 日本の伝統的和牛のものではない。

 牛角の張りが「脹(ふくら)」で、まさに弓状を成し、

 両角が大きな半円を描くようである。

 この牛角兜は藤波家が20世紀の初めに置物として

 買い入れたものではない。

 特別に製作されたもので、

 その原型を同家は 

 永年伝統として継承してきたものとみられる。

2016年5月28日土曜日

《因幡と「陶器師」土師氏》

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1229~1236頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《因幡と「陶器師」土師氏》

  「安来:十戒神社と祈り」で「因幡の白兎」

 の兎(うさぎ)は、秦氏の絹製品を取扱う者の

 取締り(監督 HSGKH/hazhgokle)のことであるとの

 見解を述べた、また

 「久伊豆神社とお獅子様」で「ハジ」は

 ヘブライ語の「野うさぎ」を表わす 

  HAZ(hoz)の音写であることも述べた。

 その「ハジ」に対し、

 「土師」の漢字が当てられているが、

 その理由を考察する。

  ガド族名のGadの祖は「栄光、幸運」を表わす

 GDVLHに近似した用語は KDR(kadōr) があり、

 これが「陶器師」を意味している。

 「土師」とはこの KDR(陶器師) のことである。

  イザヤ書第41章25に次のようにある。

  わたしはひとりを起こして北からこさせ、

  わが名を呼ぶ者を東からこさせる。

  彼はもろもろのつかさを踏みつけて

  しっくいのようにし、
  
  陶器師が粘土を踏むようにする。

 この「陶器師」はヤハウェ神の代名詞となる。

 イザヤ書第64章8ではそれを述べる。

  されど主よ、あなたはわれわれの父です。

  われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。

  ヘブライ語で粘土を TsYTs(tit) というが、

 「へな土」の意味で、砂や水を混ぜた土である。

 創造期第2章7は

 「主なる神は土のちりで人を造り、

  命の息をその鼻に吹きいれた。

  そこで人は生きた者となった。」と述べ、
 
 人を土から造ったと述べている。

 TsYTsは日本語に

 「つち・土」として移入されているのであって、

 「土師」とは「粘土師」にして「陶器師」である。

 また、この用語は「チチ」としても取り入れられ、

 『旧約聖書』における人間の始まりの

 アダムに対応した父の表現とみることができる。

 浅草の今戸では
  
 江戸時代においても盛んに瓦を焼く煙が立っていた。

 土師氏の伝統が面々と続いているのである。

 埼玉県の西端にある秩父郡、市の

 「チチ-父」は、

 その音写と意訳を並列させた地名である。

 その元となっているのが秩父神社で、

 祭神八意思兼神や下春命が持ってきた名称である。

  「ハジ」に「土師」の表記がされているのは

 このような背景理由があり、

 「土師氏」はガド族である秦氏の別称である。

 埼玉県岩槻市の久伊豆神社の創建伝承や

 東京都台東区の浅草神社などに伝わる土師氏は

 既にみたように明らかに秦氏に係わっている。

  この土師氏は、

 大和朝廷の時代に陵墓や土器製作に働いた

 「ハニ(土部)氏」とは

 区別されなければならないだろう。

  鳥取県岩吉には伊和神社が鎮座している。
 
 「延喜式」神名帳の因幡国高草郡に

 同名で記載されている。

 伊和神は祠の背後の石室に依る名称とされているが、

 ヤハウェ神であった可能性がある。

 ヘブライ語の TsVR(tsvar)という

 「大きな岩、岩盤」の意味と同時に

 「岩なる神」を表わす用語があるからである。

 「石坐」あるいは「磐坐」は神の象徴である。

  TsVR-YSRAL は「イスラエルの神」を言い、

 ヤハウェ神を表す。

 エルサレムもモリヤ山の磐坐は

 アブラハムがその子イサクを

 犠牲に献げようとした聖所である。

 伊和神社の石室はそのような磐坐である。

 その南、徳尾には、同じく神名帳の高草郡に

 記載されている野見宿禰神社が鎮座する。

 祭神大野見宿禰命は、

 同社では土師氏の祖神として奉祭したと伝えている。

 つまり、土師氏がこの因幡国にいたことになる。

 この名称をヘブライ語で解明すると、

 「大」は GDVL(gadol) ガド族の由、

 「野見」は「ノミ」で NAMN(namin)「財産管理人」、

 「宿禰」は「スクネ」で 

   SGN(segan) 「代理(者)、副官、次官」で

 「代官」を表し

 「ガド族の財産管理人の代官」となり、

 「安来:十戒神社と祈り」で述べた

 「ウサギ」HSGKH(hazhgokh)

 「監督、取締」に相当することになる。

 稲葉郷は

 同社の東方、千代川を超えた約5㎞の地点にある。

 そこからさらに南方、鳥取市の香取には

 「延喜式」神名帳の法美郡に載る意上奴神社が鎮座する。

 神名帳はその訓を「イフミ」としており、

 YKB(ヤコブ)の転訛とみられる。

 同じく法美郡に載る服部神社は

 鳥取市服部に鎮座するが、秦氏に係わる神社である。

  和名類聚抄の因幡国には

 土師郷が二ケ所記載されている。

 八上郡土師郷と智頭郡土師郷で、

 双方とも上記の諸社の南方に位置する。

 前者は現在の八頭郡郡家町に

 土師百井の地名があるように

 私都川、八東川の沿岸地帯とみられている。

 その西側は河原町で

 八上比売や須勢理比売伝承のある

 八上売沼神社が鎮座しており、

 土師氏(秦氏)の養蚕業の中心地であったとみられる。

 「郡家」と「河原」は祖語を同じくし、

 ヘブライ語の「波」を意味する 

  KhVVALYE(khvalye) の音写である。

 同地は川が合流する地点で

 水理が大事であった様子が覗われる。
 
 因みに鳥取市の千代川の河口辺にある賀露町名も

 これと同義のヘブライ語 GL(gal)の音写である。

 後者の土師氏は現在の八頭郡智頭町に当たり、

 兵庫県へはより近くで、

 播磨国一の宮伊和神社の鎮座する宍粟郡一宮とは

 そう遠くない。

 その地理的環境からも秦氏と土師は

 親しい関係にあり、

 因幡(稲羽)は「伊奈波」にして「稲禾」で

 秦氏の一族であると考えられるのである。

 「郡家」は現在「コウゲ」と呼ばれている。

 この呼称はヘブライ語の KVGL(kogl:玉)の音写で、

 鳥取市南部に古郡家の地名がある。

 その南は越路で、そこから大路川が流れ出し、

 古郡家の北に大路地区が広がり、

 大路山東西に大路神社が鎮座している。

 「大路」は兵庫県明石市の太寺あるいは大道と同様

 ガド族の「あかし、誓い」を表す 

 IDVT(ied)の音写であり、ここに秦氏(ガド族)の

 波及があったことを示し、服部神社(服部)と共に

 生糸の生産、加工が行われていた証しである。

 因幡国の国庁が置かれる以前の稲羽郷には
 
 秦氏の生糸など絹製品を取扱う者の

 取締(監督、代官)が置かれていたのであり、

 「ハジ」氏ここに始まったと考えられる。

  稲羽の白兎の物語に表されるように、

 その須勢理比売が大国主命の后となったように、

 土師氏(秦氏)と出雲族(登美族)は

 提携関係を強めたのである。

 その証拠が、安来市の聖地で、

 土師氏は出雲族とみなされるようになったのである。

 野見宿禰の伝承を

 『日本書紀』は垂仁天皇の時代に載せているので、

 あるいは海洋交易商人として

 秦氏は1、2世紀のうちに出雲や因幡に渡来し

 拠点を築き始めたとも推測される。

 垂仁天皇の治世は

 4世紀の中頃と想定されるからである。

 弓月君が百済から渡来したのは応神天皇の御代で、

 その後のことである。

 「垂仁天皇紀」32年は、

 野見宿禰が日葉酢媛命の薨去に伴い、

 出雲国から土部百人を召し出して埴輪を作り、

 その墓に立て

 殉死が禁止されることとなったとの伝承を述べ、

 ここに「土部職」に任ぜられ、

 本姓を改めて土部臣となり、

 これが土部連らが天皇の喪葬を主にする縁であり、

 野見宿禰が土部連らの始祖であると述べている。

 「ハジ」氏が

 「土師」氏と表記されるようになった由縁である。

  因みに『創世記』第4章に現れる

 アダム ADM(Adam)は 「人間、人類」の意味で、

 彼は「土、土地、大地、地球」を表わす

 ADMH(adamah) から造られたというのが説話である。

 ヘブライ語の「陶器師、陶工」である

 KDR(kadar) 及び YYTsR(yotsr) は

 因幡国に地名として移入されていて、

 土師の背景を明らかにしている。

 和名類聚抄の邑美郡の古市郷はその転訛である。

 現在の鳥取市の古市がその遺称地で、

 その南の吉成に古市神社が鎮座する。

 因幡志が

 「姓氏録所謂古市の村主という

  百済より出たる苗字なり」と述べているが、

 その伝承は弓月君の出自伝承に結びつく、

 YYTsR(yotsir) は「ヨシ:吉」と音写され、

 それを地名に取り入れた地域が周囲に広がっている。

 吉成、吉方、徳吉、岩吉がそれで、

 「吉」は「陶工」にして

 古市と同様土師氏の存在を証している。

 吉方は室町時代からの史料にあり、

 和名類聚抄の古市郷の一部であっただろう。

 叶地区に鎮座する甕宮神社は

 ここに陶工がいたことを示唆している。

 伊和神社の鎮座する「岩吉」は明治14年に

 岩座村と吉山村が合併して成立した地名だが、

 不思議なことに「延喜式」神名帳の

 八上郡に記載されている都波只知上神社の二座の

 「ツハキチ」となっている。

 同社は現在の八頭郡河原町佐貫に

 同名で鎮座している。

 「都波」は上記伊和神社紹介した際に述べた

 「岩なる神」を表わすヘブライ語の 

 TsVR の音写である。

 同社は伊和神社の下社に対する「上神社」である。

 その鎮座地佐貫は和名類聚抄に

 「讃岐」とも表記されたが、

 これはサンスクリット語の śalika(岩、石)の転訛で

 TsVR に相応する。

 同地区鎮座する白須神社名は

 サンスクリット語の sur-śali で「白い石」にして

 「須勢理」である。

 神社名「須」はヘブライ語で同じく「岩」を表わす

 SLI(selai)のLIを無音化するヘブライ語的発声に

 従ったものであろう。

 これらが「繭」を表わしていることは何度か述べた。

 「延喜式」神名帳に都波只知上神社と並んで

 載っている都波奈弥神社二座は「石(岩)の糸」で

 「繭糸」を表わしている。

 現在八頭郡河原町和奈見に同名で鎮座している。

 「都波」はTsVR、「奈弥」は、

 これもヘブライ語の NYMH(nemi)で「糸」を表わす。

 このような状況から八上売沼神社の鎮座を合わせ、
 
 河原町のこの地域が

 秦氏の養蚕業の地であることを示す。

 同地に徳吉の地名もあり、

 鳥取市の岩吉の東南を指す地名と同じくし、

 双方の深い関係を明らかにしている。

 因みに倉吉市上神及び東伯郡北条町下神の

 「神」は「ツワ」と呼ばれているが、

 TsVRがその祖語である。

 その町名の「北」は、

 町内に「土下」地区があるように

 ヘブライ語の KDR(kodor) に依拠している。

 また倉吉の「倉:クラ」は

 「離散したユダヤ人の居留地」の意味である

 GVLH(golah) を音写した「呉(くれ)」と同じであり、

 「吉」は YVTsR であるから、

 「クラヨシ」は「ユダヤ人の陶工」の意味となる。

 終章で触れる波波伎神社はここに鎮座する。

 郡家町で奈良時代の須恵器を焼いた窯跡が

 20か所程度発掘され、

 ここが土器の大生産地であったことが

 証明されている。

 その地域は和名類聚抄の

 八上郡土師郷の北に当たる地域で、

 この地域に現在は宮谷の加茂神社に合祀されている

 白兎大明神が祀られていたことなどから、

 土師氏(秦氏)の技術が奈良時代にまで

 引継がれていたものとみられる。

 それらの陶工を纏めて取締っていたのも

 稲村郷の国府であっただろうし、

 国府が置かれる以前は秦氏の「ウサギ(代官)」が

 掌握していたとみられる。

 『日本書紀』の雄略天皇17年3月に

 「土師連の支配する丹波但馬因幡等の私民部を

  朝廷に貢納し贄土師部とした」とあり、

 秦氏(土師氏)独自の支配は雄略天皇の時代で

 区切られたと推測される。

 奈良時代の8世紀には因幡国の豪族として

 伊福吉部氏ないし伊福部氏が知られている。

 これらの氏族名はヘブライ語の

 「窯で焼く」意味を持つ AFYH(afih焼くこと)、

 AFH(afe焼く)、YAFH(yafe焼く)に依拠しており、

 土師氏の別称と考えられる。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2016年5月24日火曜日

《イザヤ書のシニム》

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

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 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1217~1228頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《イザヤ書のシニム》

  シニムとは

 イザヤ書第4章12に登場する地名である。

 「シニムの地」との表現になっているので

 地名である。

 (これまでの聖書の引用は日本聖書協会

  「聖書」1955年改訳版に依ったが、

  ここは新共同訳「聖書」1987版に依る)


  見よ、遠くから来る

  見よ、人々が北から、西から

  またシニムの地から来る。

 「シニム」をアメリカ聖書協会(ABS)の

 King James Version を基にした古い聖書は

 the hand of Sinim としている。

 その地は「北から、西から、また」と述べている

 詩句からするとエルサレムからの東方ないし、

 南方に所在するとみられる。

 その南方に当たるエジプトの南

 アスワンとする説があるが、

 このイザヤ書の内容からすると妥当でない。

 なぜならば、

 捕囚の人々が居住していた場所としては

 不自然であるからである。

 エレミア書第43章、44章にはバビロン捕囚の際、

 エジプトの逃れたユダの人々について

 語られているが、第44章12に

 「またわたしは、エジプトの地に住むために、

  無理に行ったあのユダの残りの者を取り除く。

  彼らはみな滅ぼされてエジプトの地に倒れる。」

 また14に

 「エジプトの地へ行ってそこに住んでいる

  ユダの残りの者のうち、逃れ、または残って、

  帰り住まおうと願うユダの地へ帰る者は

  ひとりもない。」

 と預言者エレミアが述べていることから、

 捕囚の地としてのシニムをアスワンとするのは

 不的確であろう。

 アスワンは Swein と表記され、

 これが『旧約聖書』にある 

 Syene であるとの解釈によるものである。

 ABSのイザヤ書に Sinim を載せる

 前述の版本(古いもの)は

 エゼキル書の第29、30章に

 エジプトに係わる地名として、

 この Syene を表記し、 Sinim とはしていない。

 Syene はアスワンであるが、 

 Sinim はアスワンではないと考える。

 なお、エレミアの活躍した時期は

 紀元前7世紀の後半から6世紀の前半、

 エゼキルは6世紀後半で」ある。

 ヘブライ語版(死海写本) では SYNYM とある。

 その比定については、

 他の西欧の聖書学者の見解も不確実で、

 最新の岩波書店

 「『旧約聖書』「イザヤ書」(1997年)」も

 「エジプトないしペルシアの

  どこかの地名と思われるが、不詳」と述べ、

 そこがどこかを不明のままにしている。

  SYNYM の語形は SYN-IMで、SYNの複数形とみる。

 SYNは現在一般に中国を指す言葉である。

 イザヤ書に述べられている 

 SYNは「秦(しむ)」に他ならない。

 「秦」とは

 本書で展開してきた秦氏の旧名月氏の故地である

 祁連山系の麓一体を言ったものと

 解釈することができる。
 
 第6章 「メディアから安定へ」で述べたように

 博罗轉井は「パリサイ」の音写であり、

 ヘブライ人の「離れた地」で、地名、山名

 アルタンはエズラ記第13章(ラテン語版)に

 アルザレと転訛して記載されていると考えるが、

 「安定」も同祖語とすることができる。

 前2世紀後半(176年)には移動を開始、

 140年に大月氏国となるが、

 紀元前200年頃はまだ安定を本拠としており、

 秦帝国は成立していなかったものの

 前3世紀末には強大になり、

 月氏にはその情報が十分伝わっていたであろう。

 何しろそれ以前の200年にわたり

 少々離れていたものの

 その勢力圏が至近距離にあった。

 イザヤ書第40章からは第2イザヤ書といわれ

 紀元前550年頃成立されたとする

 「預言書」の一つであろう。
 
 イスラエル人である月氏が中東アジアで

 活躍したのは紀元前4世紀以後のことである。

 その預言が妥当であったのだろうか。

 そうではない。

 「預言」とははいうものの、実際興った事々を

 記述しているレイハ古代には存在する。

 インドの仏教経典が

 ジャイナ経にそれらしい記述がみられる。

 何回か引用した「ミリンダ五の問い」も

 メナンドに大王の実在は

 紀元後1世紀らしい内容が含まれ、

 その完成が1世紀の終わり遺構に想定されている。

 ジャイナ教典には実在した王名9名が

 未来に現れるだろうと記述したいる。

 それらはインドの場合であるが、

 イスラエルにおいても

 そのようなことが無かったとは限らない。

 現在のところヘブライ語で書かれた最古の

 『旧約聖書』である死海文書(写本)でさえ、

 その記述された時期が

 紀元前1世紀の間と推定されている。

 以上のことを踏まえれば、

 そのような経緯により、

 シニムがイザヤ書に採り入れられた可能性はあり、

 アジアで活躍したイスラエル人の情報が

 いずれの時にか明らか確実にエルサレムまで

 伝わっていたことになるのである。

 それはイスラエルの

 「失われた十支族」の一部の消息が

 知られていたことになり、

 聖書は明確にその記録を書き入れたのである。

 紀元前2世紀はパルチア五国が隆盛で

 東方との交易は海洋によることが、

 西アジアやギリシャの商人に知られるようになり、

 インドと紅海あるいはエジプトとの貿易が

 盛大になった。

 セリカの絹製品が続々とローマ帝国へ流入した。

 その担い手がユダヤ商人であったことは
 
 よく知られているところであり、

 クムラン宗団の存続した当時に

 東方(セリカ)の情報が彼等に届いていたとしても

 不思議はない。

 死海文書を記述作成したとみられる同集団の存続は

 紀元前2世紀に遡ることが確実とされている。

 また、イザヤ書の弁明は

 本書の月氏、秦氏の来歴についての解釈を

 正しいものとして説明しているのである。

 その関連の記述はイザヤ書ばかりでなく、

 エズラ記(ラテン語版)第13章にも及んでいる。

  さて第2イザヤ書は「慰めの書」ともいわれ、

 アッシリアによって連れ去られたイスラエル国の

 十部族及び新バビロニアによって起こされた

 バビロン捕囚の人々に対し、

 シオン(聖地)のあるエルサレムへ

 必ず帰還させるとの神の誓いを

 詩詞によって述べたものである。

  あなたは知らないのか、聞いたことがないのか、

  主は、とこしえにいます神、

  地の果てに及ぶすべてのものの造り主、

  倦むこともなく、疲れることもなく、

  その英知は究めがたい。


  ここにおいて、

 突然に主が「地の果ての創造者」で

 あることを述べ始める。

 これからまだ知られていない「地の果て」に

 ついての事実を述べると言っているのである。

 「地の果て」とはカナンの地からみた

 東方の端を想起させる。

 第41章はそこの国々に向かって呼びかけている。

 
  島々よ、わたしのもとに来て静まれ、

  国々の民よ、力を新たにせよ、

  進み出て、悟れ、

  互いに近づいて裁きを行おう、

  東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、

  国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か、

  この人の剣は彼らを塵のように

  弓は彼らをわらのように散らす、

  彼は敵を追い、安全な道を進み、

  彼の足をとどめるものはない。

  この事を起こし、成し遂げたのは誰か。

  それは主なるわたし。

  初めから代々の人を呼び出すもの

  初めであり、後の代と共にいるもの

  島々は惧れをもって仰ぎ

  地の果てはおののき、共に近づいて来る。

  (略)

  わたしの僕イスラエル人よ。

  わたしの選んだヤコブよ。

  わたしの愛する友アブラハムの子よ。

  わたしはあなたを固くとらえ

  地の果て、その隅々から呼び出して言った。

  あなたはわたしの僕

  わたしはあなたを選び決して見捨てない。

  恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神

  たじろくな、わたしはあなたの神。

  わたしの救いの手であなたを支える。

 この詩句はペルシャのキロス

  (『旧約聖書』ではクロス)王が、

 新バビロニア(カルディア)を滅亡させ、
  
 捕囚のユダヤ人を解放し、帰郷を許し、

 エルサレムに神殿を建てることを許容したことを

 述べている。

 「島々」と訳されている用語は

 ヘブライ語版では「沿岸と島」を

 それぞれ複数形で記述している。

 正確には「海沿いの国々と島々」である。

 「海沿いの国々」の初出はイザヤ書第11章10である。

 「その日主は再び手を伸べて、その民の残れる者を

  アッスリア、エジプト、パテロス、エチオピア、

  エラム、シナル、ハマテおよび

  海沿いの国々からあがなわれる。」

 そのエラムは、現イラン・ザクロス山脈南で

 スーサがその中心であった。

 パテロスは創世記第10章に

 ミツライムから出た氏族名にあるので

 エジプトの一部である。

 シナルは創世記第10章に「シナルの地」とある

 シュメルを指す。

 ハマテは現シリアのハマとされている。

 列王紀下第17章24に

 「かくてアッスリアの王は

  バビロン、クタ、ハマテ及び

  セパルワイムから人々をつれてきて、

  これをイスラエルの人々の代わりに

  サマリヤの町々におらせた」とある。

 それに続くのが「海沿いの国々」であるから、

 地中海東岸地域とみるのが妥当であろう。

 しかし、

 第40章以下の同語は違う内容となると考えられる。

 主はこれらの国々の民を支えて

 決して見捨てないと述べ

 「わたしのもとに来て静まれ」と

 そのシオンへの帰還を促している。

 第41章25は言う。

  わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。

  彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ。

 また、第43章5-7は言う。

  わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り

  西からあなたを集める。

  北に向かっては、行かせよ、と

  南に向かっては、引き止めるな、よいう。

  わたしは息子たちを遠くから

  姫たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。

  かれらは皆、わたしの名によって呼ばれる者、

  わたしの栄光のために創造し、
  
  形づくり、完成した者、

 
 その地の果ての人々とはどんな人々か。

 第42章10-12は言う。

   新しい歌を主に向かって歌え、

   地の果てから主の栄誉を歌え、

   島々とそこに住む者よ、

   ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ、

   セラに住む者よ、喜び歌え、

   山々の頂から叫び声をあげよ、

   主に栄光を帰し、

   主の栄誉を島々に告げ知らせよ、

 「海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの」とは、

 海洋を利用して活動をしている者、

 つまり交易商人を表している。

 第6章 イスラエル人と月氏の「海洋交易商人」で

 月氏であるイスラエル人が絹を扱う海洋交易に

 乗り出したとの見解を述べたが、
 
 この一節はまさにそのことを

 明白に言っているのである。

 エズラ記第13章に

 「海から昇る人」の説話が語られるが、

 これもヤハウェ神の威光が海洋に及んだこと、

 つまり、

 イスラエル人が少なくとも

 紀元前3、2世紀に海洋を舞台に

 活動していたことを示しているのである。

  イザヤ書第11章に表わされ

 「海沿いの国々」は

 地中海の東岸地域を言ったものであろう。

 しかし、第2イザヤ書に表われる

 「海沿いの国々と島々」は

 そのその限りでないと考える。

 イスラエル人の海洋貿易商人たちは

 紀元前にインド洋のより広い地域に活動の場を拡げ、

 さらに太平洋海域まで伸長していたと考えられる。

 漢書地理志が記録する交易商人の寄港地などの

 ネットワークは、その交易網を説明したものである。

 上記に転載した第40章28の

 「主はとこしえの神、地の果ての創造者であって」

 とある「地の果て」はイスラエル人の活動地域が

 そこまで広がったことを示しているのであり、

 単なる詩的美辞麗句ではないと考える。

 第41章5は

 「海沿いの国々は見て恐れ、地の果ては、おののき、

  近づいて来た」とある。

 その9は

 「わたしは地の果てから、あなたを連れてき、」

 と語る。

 それが第3イザヤ書(56章から66章)の終わり

 第66章19になると、

 「わたしの名声を聞いたことも、

  わたしの栄光を見たこともない

  遠い島々(海沿いの国々と島々)に遣わす。

  彼らはわたしの栄光を国々に伝える」となる。

 エゼキエル第27章15は言う、

 「ローヅ島(日本聖書協会版は、こう表記するが、

  原語はデダンで、アラビア半島の紅海の奥

  アカバ湾に近い内陸の通商路の町とみられる)

  の人々はあなたと取引し、

  多くの海沿いの国々(島々)は、

  あなたの市場となり、象牙と黒檀とを、

  みつぎとしてあなたに持ってきた。」

 本書の第7章の「メルッハとオフル」でみたように

 象牙と黒檀はインド、南アジアの特産品である。

 その「遠い島々」が指して地域が

 アラビア海以遠にあることが知られる。

 イザヤ書第41章から43章までは捕囚のために

 イスラエルの地を去らされた人々の、

 それまで知られなかった情報を語り、

 彼等にシオンへ向けて帰還することを進めて、

 その正義が行われるよう、

 それらの人々を支援する神の誓いを述べている。

 イザヤ書の sinim が載る第49章は、

 呼び「海沿いの国々と島々」に呼びかけが行われるが

 ここに極めて重要な条句が述べられている。

  海沿いの国々(と島々)よ

  わたしに聞け、

  遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ

  (略)

  主は言われる、

  「あなたがわがしもべとなって

   ヤコブのもろもろの部族をおこし、

   イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、

   いとも軽いことである。

   (だが、それよりも)

   わたしはあなたを、もろもろの

   国びとの光となして、

   わが救いを地の果てにまでいたらせよう」と

  この分節は「秦」の末裔と考えられるすべての

 人々に対して述べられている主の告示である。

 その主旨は、彼等に対し、故地へ帰還しなくても

 構いませんと言っているのである。

 第40章から捕囚された人々にイスラエル、

 すなわち

 約束(嗣業)の場であるカナンへ帰ることを

 強力に支援すると説いてきた。

 だが、「秦」の国々のイスラエル人には、

 「帰らせることはいとも軽いことである」が、

 それらの人々は、その地の

 「国びととの光となして、

  わが救いを地の果てまで

  至らせよう」と言っている。

 つまり、今居住する国に留まり、

 信仰を守ってくれれば祝福しましょうと

 言っているのである。

 これは

 ガド族が島の国にイスラエルの聖地を

 創建することを容認する節句である。

 いかでか遠いカナンまで帰る必要があろうか。

 申命記第33章(28-29)を再び記す。

  イスラエルは安らかに住み

  ヤコブの果は穀物とぶどう酒の地に

  ひとりいるであろう。

  また天は露をくだすであろう。

  イスラエルよ、あなたはしあわせである。

  だれがあなたのように、

  主に救われた民があるであろうか。


  安来市の安来を流れる川名

 「木戸」は KDVSh (キドゥーシュ) の音写で

 安息日や祭日の食事前に創造を賛美し、

  (日+賣)いを感謝して、

 ぶどう酒やパンを祝福する祈りである。

 人々は感謝を込めて祈りを献げていたのである。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2016年5月19日木曜日

《箒木は「智恵の木」》➀

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 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1281~1299頁

 おわりに

 《箒木は「智恵の木」》

  『旧約聖書』「イザヤ書」第40章6-8に

 次のような詩がある。

 40:6

  声が聞える、「呼ばわれ」。

  わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。


  「人はみな草だ。

   その麗しさは、すべて野の花のようだ。

 40:7

   主の息がその上に吹けば、

   草は枯れ、花はしぼむ。

   たしかに人は草だ。

 40:8
   
   草は枯れ、花はしぼむ。

   しかし、われわれの神の言葉は

   とこしえに変ることはない」。

  この偉大な力を持っている「息」は、

 ヘブライ語で HBL(hebel) といい、

 「息、蒸気」また「風」を表わす。

 グルジア語の同類語 haeri は「空気」を表わす。

 ヘブライ語において HBL は、

 さらに「空、空虚」を表わす。

 『旧約聖書』「伝道の書」第1章2に
 
 この「空」が用いられている。

 1:2

  伝道者は言う、

  空の空、いっさいは空である。空の空


 これを漢語的に表記すると、

 「空空、一切是空、空空」となる。

 「空空」はヘブライ語で 

  HBL-HBLYM(hebel-habalim)となり、

 「虚無感」を言ったものと理解される。

 「伝道の書」は第1章1に

 1:1

  ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
 
 とあり、伝道者とはダビデの王子ソロモン王を指す。

 聖書学者は

 この書は実際にソロモン王が述べたのではなく、

 同王に託して述べられたものであるとの

 見解を共有している。

 第1章12-14は述べる。

 1:12

  伝道者であるわたしはエルサレムで、

  イスラエルの王であった。

 1:13

  わたしは心をつくし、知恵を用いて、

  天が下に行われるすべてのことを尋ね、

  また調べた。

  これは神が、人の子らに与えて、

  ほねおらせられる苦しい仕事である。

 1:14

  わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、

  みな空であって風を捕えるようである。


 同書の第1章から第4章まで

 いろいろな自然現象や人間の行い、また

 王の努力苦労などを述べているが、

 それらを「空であって風を捕えるようである」と、

 それらが空しいことを弁明している。

 これは「イザヤ書」の「草は枯れ、花はしぼむ」

 に対応する。

 第1章は上記の

 「空の空、いっさいは空である。空の空」に続いて、

 次のように詩われる「伝道の書」第1章(3-9)。

 1:3

  日の下で人が労するすべての労苦は、

  その身になんの益があるか。

 1:4

  世は去り、世はきたる。

  しかし地は永遠に変らない。

 1:5

  日はいで、日は没し、

  その出た所に急ぎ行く。

 1:6

  風は南に吹き、また転じて、北に向かい、

  めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。

 1:7

  川はみな、海に流れ入る、

  しかし海は満ちることがない。

  川はその出てきた所にまた帰って行く。

 1:8

  すべての事は人をうみ疲れさせる、

  人はこれを言いつくすことができない。

  目は見ることに飽きることがなく、

  耳は聞くことに満足することがない。

 1:9

  先にあったことは、また後にもある、

  先になされた事は、また後にもなされる。

  日の下には新しいものはない。

 「しかし、地は永遠に変わらない」は、

 前記の「イザヤ書」40章の

 「しかし、われわれの神の言葉は

  とこしえに変わることはない」に対応する。

 「人はみな草で」、「草は枯れ、花はしぼむ」が

 「地は永遠に変わらない」ように

 「神(の言葉)はとこしえ(永遠)に変わることはない」

 のである。

 つまり、人のなせる業は「空空」であるが、

 神は有り続けるもの「有る者」にして

 「有りて有る者」であると言っている。

  「有る者」「有りて有る者」を漢語的に表記すると

 前者は「有」、後者は「有有」となるが、

 本書の第16章の

 「志摩のダンダラボーシと天白社」で述べたように

 「如」あるいは「如如」とする方が的確である。

 「空空」と「如如」は

 仏教の経典にも使われている用語である。

  「空空」はサンスクリット語で

 śūnyatā-śūnyata といい、

 大乗仏教の端緒となった

 般若経の「空(śūnya:本義は零)」の説に始まり、

 大空経(中部122経)、中阿含経(巻49)に表れ、

 「空という観察それ自体空である」というのが

 その論旨である。

 鳩摩羅什が漢訳した「中論」の「空亦複空」が

 それを表わしている。

 空海の詩文をまとめた「精霊集(巻第7)」には

 「戯論を空空に滅し、寂静を如如に証せむ」と、

 「空空」と「如如」とが

 対極にあるものとして用いられている。

 その「如如」は「智度論2」に

 「如如法性実際世界故無、第一義故有」とあり、

 「大乗義章3」には

 「如如ト云フハ、是前正智所契ノ理ナリ、

  諸法體ハ同ジ、故ニ名ヲ如トナス、

  一如中ニ就イテ、體ハ法界ノ恒沙仏法ヲ備エル、

  法ニ随ッテ如ヲ弁ズレバ、

  如ノ義ハ一ニ非ラズ、彼此皆如ナリ、

  故ニ如如ト曰フ」とある。

 恒沙とは恒河(ガンジス河)の砂の数をいい、

 物の極めて数の多い比喩で

 仏典にはよく使われている慣用句である。

 體(てい)とは「かたち、ありさま」である。

 「如」はサンスクリット語で tathā といい、

 「存在のあるがまま」を意味する。

 同語は漢語仏典に

 「法界、実相、真如、如実、如如」と訳されている。

 tathā-tathā は漢訳され「如是如是」となっていて、

 「如如」に相当する。 

 これらは、全ての存在の法(性)の

 真実(あるがままのすがた)を言っている用語である。

 「往生要集(大文第4 正修念仏)」は

 「色は即ち空なり、故に これを真如実相といふ」

 といい、「真如」と「如如」は同義とされ、

 「大乗仏教」においては

 「空」を強く主張する。

 これに対し、

 『旧約聖書』は

 「如如(有有)」を強く主張し、

 そこに神性を求めている。