2010年6月30日水曜日

実に貴重で素晴らしい巨大文化財「系譜」 

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:22頁

ではその「名替え」とは、

ただ「誉(ポ)む都(トス)」を「誉(コ)ン田(タ)」と、

無理やりに読み替えさせただけのものだったか?。

実はその実態と真相、

さらに<倭の五王>を生んだ

応神王朝=大和朝廷の実像を教えてくれるすばらしい文化財とがある。

それは応神天皇をめぐる系譜なのである。

この系譜は『古事記』に掲載されているので、

1300年以前からわかっていたものである。

しかしその謎は私たちの「言語復原史学」による発見、

これまで当人の死後つけた

贈り名=諡号だと断定され教えられてきた人々の名が、

実は生前から使われていた称号であり名乗りだったのだという真相を、

明確に認識しなければ絶対に解けない謎だったのである。

その答は応神王朝が本来は女王国家であったことを鮮やかに立証しているし、

それが『記・紀』の虚構性とその理由をはっきりと説明してくれるし、

いまお話ししたその伊奢沙(イザサ)和気の大神の命とは誰だったのか。

<名替え>とは何だったのかといった、

より細かい部分まで改めて詳細に理解させてくれる。

これまで次々に明らかになってきた<イサナキ>という名の世襲ばかりでなく、

倭の五王の名の世襲や経路もまた、

さらに組織だって明確にわかるようになる。

系譜は一見なにか繁雑に見えるが、

よく注視すれば実に偉大な文化財で

我が国の建国史復元に欠くことのできない

貴重な文化財だったのだと、

改めて深くご認識していただけると思う。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年6月29日火曜日

解けた応神天皇の「名替え」の謎 

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:21頁


だがまだ疑問が残っている。

この<誉>の字は<ホム>とは読めるが、

漢字音は<ヨ>であって、<コン>とはどうしても読めない。

それを無理やり<コン>と読ませているのが、

前記のとおり本家本元の<応神天皇陵>であり、

そこにある<八幡宮>なのである。

そこまでする理由はそれがパーリ語の名前であり、

本来つけられた本当の名であり発音だからである。

『古事記』の仲哀天皇記には、

建内宿祢が幼い日の応神天皇をつれて、

御禊(みそぎ)のために淡海などを経(へ)めぐったとき、

夢に<伊奢沙(イザサ)和気の大神の命>が現われて、

皇子と名を替えたいと言われて取り替えたという

「名替え」の話が特記してある。

在来はそれは何のことか明確にはわからなかった。

しかしもうおわかりのように

前の<八幡>はギリシャ信仰をもつ海人たちの王の

本都別(ポントス)で<ポントス>だったから

<誉都別>と書いたり<本都別>と書いた。

しかし後の八幡はパーリ語の名をもつ仏教徒のコンタで、

全てが、はっきり別人だったので、

その文字の発音も<誉田>を<コンタ>と読むことになったのである。

それは巴利国の名を今に残す隼人町に

その皇居の跡が大隈正八幡として残るのであるから、

当然パーリ語名でなければならない。

これが名替えが行なわれたという伝承の真実の実態だったのである。

伊奢沙(イザサ)和気はイザナギということも、

もうご説明はいらないと思う。


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2010年6月28日月曜日

濃厚に残るギリシャの血と文明 

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:20頁

この<ポントス>は地名としても残っている。

海神にふさわしく、

四面海に囲まれた天草(熊本県)最大の都市、<本渡市>である。

この天草には<栖本(すもと)町>があり、

その対岸に<津奈木>があって、

淡路島との血縁が深いことを先にお話ししたが、

倭の五王出自歴史と勢力圏が、

これで一層、イメージアップしたはずである。

ついでにいえば、

これまでみてきた南島海域から

南九州、天草、大分、愛媛から香川、徳島、

そして淡路島には古代ギリシャから承けついだ

南欧型の容貌の持主が多い。

二千年の歳月は大きく混血を進めたが、

やはり隔世遺伝したDNAが見事な形で今なお現れるのである。

それが古代のグローバル化の生きた

証拠であるということはいうまでもない。

それが今、日本人に大きく役立つときを迎えたのである。

「地図」

熊本県・鹿児島県

『参考』

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2010年6月27日日曜日

品陀和気の由来は海神ポントスから 

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:19頁

しかし<八幡>は少なくとも2人いる。

わかりやすく要約すると、

『大隈正八幡縁起』にある<オオヒルメ>が海を渡って

<隼人>に連れてきた<八幡>は、

卑弥呼時代の3世紀に<狭穂姫皇后>が生んだ垂仁天皇の皇子・

<本都別>(ホムツワケ・ホントワケ)だとわかっている。

もう一人はずっと後の4世紀に

<武内宿祢>に連れられて角我の宮に詣でて、

そこに居た神様または王と名前を交換したために

品陀和気(ホンタワケ)または誉田別になった幼い皇子だ。

だから名は同じでも年齢が大きく違っている。

あとの方が仁徳天皇の父の応神天皇である。

3世紀の本都別>は南九州の南の海にある島で生まれている。

そこはギリシャ人が支配していた

<ヨナ国>(イオニヤ=ギリシャのパーリ語)圏で、

海人たちの世界だったから、

国の名も<ポセイドン>(百済(ホセ)出水(イヅン))など

海神の名をつけていた。

このことを考えると<本都別>という名も

海神の<ポントス>にピッタリ合っている。

オオヒルメこと壹與は『三国史記』の新羅始祖王赫居世で

<徐那伐>(ヨナバル=沖縄の与那原)で即位しているから、

与那=ギリシャ人である。

だから彼女が連れてきた姉の子が

<ポントス>という名だったの当然のことである。

しかし沖縄語圏では<oe音>は使わないから

<ポントスビコ>は<フムツビチ>になる。

しかし文字は誉めるの誉(ホメ)をフムとして使い、

<誉都別>と書いたのである。

これが<ホムタの由来>なのだ。


『参考』

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2010年6月26日土曜日

パーリ語だった誉田(コンタ)。八幡はパーリへの当て字から 

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:18頁


讃・珍と同じく、これもまたパーリ語なのである。

Konta コンタとは旗や幡の類をいう。

八幡も8つの旗を意味するから、

まさしく<コンタ>を漢字に意訳したものだったのである。

しかしその八は何のためについているのだろう?。

すでに詳しくお話ししたように、

彼の都はいまの隼人町(鹿児島県姶良町)にあった。

そこは卑弥呼時代の<巴利国>である。

この<巴利国>はそのまま<ハリマ>と読めるから、

淡路と一緒に兵庫県に移動したことが一と目でわかる。

<ハリマ>への当て字は<播磨>である。

<幡>も<播>も漢字音は<バン>だから幡の代わりに播の字を使うと八播で、

これはパハリと読める。

日本語の古音は母音に<h音>を加える。

戦前までの振り仮名を見ると、

<悔いをクヒ>、<箒をハフキ>、<お前をオマヘ>と書いた。

これは南九州語にいまも強く残っている発音で、高千穂という地名も、

その南九州語では武内宿祢を指す武内(タカチ)=タカチオーに一致する。

これは他の記録にもよく合うので、正解であり史実だとわかっている。

だから南九州では<パーリ>は<パハリ>なのである。

八幡とは、この<パハリ>を<八播>と書いたものが先に生まれたが、

後にそれと応神の名のコンタが複合して、

旗の意味の幡のほうが専用されるようになっただけで、

もとは<八播>で、その遺物が今の<播磨>なのである。

これで<応神>はなぜ<八幡>と呼ばれるのか?という

過去の大きな謎は完全に解け、

答えは完全に揃った。

『参考』

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2010年6月25日金曜日

半島出身の『記・紀』編纂者が立証する応神天皇実在

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:17頁

また安萬侶の姓が「太」という半島人型の一字姓であることも、

半島人の特質としてこれと複合してくるので、

彼が半島出身者だった可能性が一層有力になる。

するとさらに国史編纂を天皇から任されたにしては

余りにも地位の低い理由が見えてくる。

彼はその出身地のために、いかに文学の才能が優れていても、

高位には昇れない宿命を担っていたことになる。

だがそれ以上に重大なことは、

応神天皇の母である神宮皇后が、新羅・百済を征服支配し、

そのあとを応神が継いで半島に君臨していたという記事が

史実になる点のほうである。

『記・紀』は双方ともそれをこの半島訛り型を

気にせずに記載しているから、

半島支配が事実だったことの強い証言になる。

それなら応神架空説など問題にもならない。

安萬侶らは<ホンタ天皇>の方が実在者で、

<コンタ天皇>など知らなかったからである。

また『記・紀』編纂責任者たちも、

そのことを少しも問題にしていない。

こうした問題も在来の日本史家は全然気づかず、

議論した者もいないが、

これは過去には考えられもしなかった

『記・紀』編集者たちの実態を、

このことがより深く、

より正確に教えてくれているとみることができる。

これで<応神天皇>が実在者だったばかりか、

半島支配もまた決して架空ではなかった可能性が一段と高くなった。

ではその本当の名乗り「コンタ」とは一体?何のことなのだろう?。

『参考』

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2010年6月24日木曜日

応神の名はコンタか?ホンタか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:16頁

話題を本題に戻そう。

こうして<讃と珍>の名がともにパーリ語で、

<兎のササ>と<天柱のツナ>であり、

それが沖縄方言化した<チヌ>だったことがわかると、

次の倭王・済にとりかかる前に、

讃と珍の父・応神天皇の問題を解決しておかねばならない。

なぜなら戦後、唯物史観学者が

応神天皇とそれ以前を虚構だと独断で義務教育から

抹殺してしまっているからである。

このことは本講では関連があるたび繰り返し取り上げてきたが、

パーリ語との検証はまだだった。

それをここで最終的にお話しして、

応神天皇の実在を立証する決定的な総括にしよう。

『日本書記』には天皇の身体に、

矢の容器の鞆=ホムタのようなコブがあるので、

<ホムタワケ>と呼ぶ解説があるし、

『古事記』は<品陀天皇>と書いて<ホンダ天皇>と読ませている。

だが大阪府羽曳野(はびきの)市誉田(こんだ)の天皇の陵は

<誉田>と書いて<コンダ陵>と読むし、

そこにあって天皇を祭る社の名も<

誉田八幡>と書いて<コンダハチマン>と発音する。

どちらが正しいのだろうか?。

<コ>と<ホ>の関係は<カ行>と<ハ行>の違いで、

<韓国>を<カン国>といい<ハン国>という違いに等しいから、

<コンダ>は我が国型の発音で

<ホンダ>は朝鮮語型の発音である。

だから『記・紀』が

半島からの帰化人によって書かれたという説は、

この天皇名への当て字差をみれば正しいようにみえる。

これを基準にする限りでは、

<品陀>と当て字した<太の安萬侶>は半島出身だった可能性がある。

『参考』

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2010年6月23日水曜日

海外の日本史家の著書目録

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:15頁

こうしたことを痛烈に批判した

現代のアメリカの言語史家・<アンドレー・ミラー>の

それについては本講冒頭でお話ししたが、

ここでは明治初年の海外の日本研究者の著書を挙げて、

欧米人の日本人観が明治維新直後からどんなふうに形成されてきたか、

その形成に我が国の国史学者が、どんな罪を犯したかお考えいただき、

ご自分のお眼でお確かめいただければとご期待申し上げる。

私たちの言語復原史学が日本人、

ことにグローバル化が進行する未来の日本人にとって、

いかに重大な役割を担っているか、

ご痛感いただけると思うからである。

著者          書名                             出版地 出版年

Charles Delprat Le Japon et la question japonaise       Paris   1868  明治元年

Walter Dickson  Japan being a Sketch of the History,…  London  1869  明治 2年

Aime'Humbert    Le Japon illustret' par Aime’Humbert… Paris   1870  明治 3年

A.B.F.Mitford   Tales of Old Japan                      London  1871  明治 4年

Charles Lanman  The Japanese America,           London  1872  明治 5年

W.Heine         Japan.Beitrage zur Kenntniss des -…    Berlin  1873 明治 6年

Fransis O.Adams The History of Japan from the Earlist   London  1874  明治 7年

『参考』

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輝かしい建国の一大基地だった淡路島

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:14頁


それだけではない。

倭王・珍が、どこからどこへ海を渡ったのか、

それも本講座でお話ししたように沼島から対岸の海南市日方だった。

だから沼島の海岸に立神岩

(お上の出発点>を記念した石柱=発(た)つ上(がみ)岩)を造り、

「帝柱 inda khila インギーラ」と呼び、

磤馭盧(インギーラ)と当て字したのである。

だがこれを<オノゴロ>と読み損なったものを

『古事記』の筆者が淤能碁呂島と当て字した。

それを物知り顔に、

それは海の潮が「自然に凝り固まってできた島」という意味だと、

さらにコジつけたために、

まるで幼稚な野蛮なお伽話になってしまった。

こうして立派な史実が冒涜されて蛮人の迷信なみのものになってしまい、

淡路島も

「輝かしい統一国家・大和朝廷」建国の一大基地だったという、

我が国の歴史上、特筆に値いする真実の地位に、

黒く薄汚い泥を塗られて、

「小島は海の塩が自然に固まってできたものだと

信じるような島民の住む、野蛮な田舎の島」

というイメージに固定されてしまった。

真実の古代日本の高い文明文化とは、

あまりにもかけ離れ過ぎた低劣なニセの日本人像が、

それらの連中によって作られ、

それを後継者の日本史家たちが、

平気で国民に教え、

世界に宣伝してきたのである。

こうした腹立たしい事実をこのまま見過ごすことはできないから、

私たちは大きな経済的苦痛に耐え犠牲を払いながら、

日夜奮闘し続けているのである。

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2010年6月21日月曜日

「宇遅の渡り」が象徴する日本の悲劇

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:13頁

それは5世紀の天皇たちが、国際人としても

一流だと宣伝するための加筆だとみないと、

史実の真相は、まるで見えなくなってしまうからである。

記事が史実でない部分は大山守が死んだ部分にもみられる。

そこは「宇遅の渡り」というところだったと書いてある。

<ウチノ>は<オオ・チヌ>で<倭・珍>であり、

淡道(オオ・チヌ)の、であり、

阿波(オオ)・津名(チヌ)だから、

徳島から淡路島へ渡る鳴門海峡には合うが、

そこを渡れずに死んだのは阿波と讃岐どまりだった

大雀・仁徳天皇のほうで大山守ではない。

大山守が敗死した史実の<大分>は、

その古音<オオキタ>。

これは沖縄音<ウチタ>だからこれに

<ウチ都>と当て字すると

<ウチツ>と読め、

<宇遅津>になる。

その「渡り」は愛媛へ渡る豊予海峡のことである。

こうした地名と名乗りの精密な比較検討法を知らずに、

<宇遅>を無理に<ウジ>と読み、

京都府の<宇治>だと思い込んでいた在来の日本史家たちの想像説が、

どれくらいお粗末だったか、申し上げるまでもないと思う。

だから本当に大和朝廷を生み出した淡路の偉大さがわからず、

「国生み」を蛮人なみの迷信に落して海外の歴史家を誤らせ、

世界の人々による日本人蔑視を助長したのである。

それだけでなく、今の朝鮮半島の一部の国にみるような、

極端な国家主義を支える道具として皇室を利用し、

史学を学問ではなくオウム真理教なみの迷信にしてしまったのだ

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2010年6月20日日曜日

皇位譲り合いのモラルと史実の背景

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:12頁

私たちが発見した巴利国の遺跡・隼人町には霧島から流れ下る天降川があるが、

その発音はアモリ川またはアムイ川である。

<足守神社>が<珍の神社>であることは動かない。

同名のアモリ川は、

中国東北区(旧満洲)とロシアの国境にもあることも以前お話しした。

中国名は<黒竜江>だが、現地では<アムル>と呼んでいる。

そこはかつて高句麗領だったのだから、

日本語名が残っていても当然で不思議はない。

シベリヤがシバレル土地、スベル土地。

バイカル湖が貝狩る湖という日本語であることをお話ししたことなどと併せて

再確認しておいていただきたい。

そんなところまで南九州語の地名が分布しているのだから、

和歌山に<アモリ>という南九州語の名をもつ神社があるのは当然といえる。

履中天皇たちが南九州語を話していた証拠の文化財であり。

同じコースを描く神武東征記事の原型でもあるのである。

『記・紀』はご存じのとおり中国向けに書かれた宣伝文書と見るべきものである。

だからこの自殺記事の前には、

和邇(ワニ)吉師(『日本書紀』の王仁(ワニ))が

『論語』十巻をもってきた記事まである。

宇遅能和紀郎子と仁徳が皇位を譲りあったというのは、

その『論語』が教える儒教のモラルであり、

5世紀当時の日本人の道徳観ではないから、

それは真実の記録ではなく、

8世紀の大和政権が考案した、あくまで中国向けの宣伝記事とみるほかない。

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2010年6月19日土曜日

珍は2人いた

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:11頁

『記・紀』はそのあと珍と讃が皇位を譲り合って、

どちらも即位せぬうちに珍が死んだと書いているが、

現実には珍は讃より前進して淡路島に入り、

そこを基地にして対岸の紀州を領土に加えている。

沖縄語は<キ>を<チ>と発音するから<チン国>は

関西語では<キノ国>になるからである。

だから宇遅能和紀郎子は<ウ=大=倭>、

<チノ=珍=津名十キノ=紀伊の国>、

<ワキ=稚=和歌山>という名乗りになり、

和歌山県が2重になってその足跡を明瞭に立証している。

宇佐や四国で自殺なんかしていないという名乗りなのだ。

このことは次の天皇・履中の名乗りでも立証されている。

その名乗りが<イサナキワケ>で、

皇后<イサナミ>と「国生み」をした神であることは

すでに詳しくお話しした。

<イサ>=伊勢、<ナ>は助詞または<奈良>、<キ=紀伊>、<ワケ=和歌山>。

奈良はおいても和歌山県だけでなく伊勢まで領土に加えている。

これは先行した珍がなければ、

『宋書』が記録した期間内では不可能な領土拡大である。

それを『記・紀』は<履中天皇>だけを<皇統>に入れている。

だからこれまで珍は履中だとしてきたが、

史実は宇遅能和紀郎子の生存と東征を証言しているのである。

この2人のどちらが祭られているにせよ、

その和歌山には足守神社がある。

これは<アモリ=天降り>で南九州語なのである。

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2010年6月18日金曜日

讃と珍が誰かを確証する兄弟の継承権戦

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:10頁

こうしてパーリ語の語源がわかったことで、

これまで子供だましの伝説としか考えられていなかった<天の御柱>をめぐる

<伊弉諾・伊弉冉尊>2神による「国生み」の説話が、

たちまち史実として動かぬ権威をもつものに昇格したことが、

よくおわかり戴けたと思う。

それは神ではなく人として実在した倭王・珍が

淡路島の津名を彼等<天孫族の国の御柱>として、

それをバックに本当に新しい国家・大和朝廷を生み出したからである。

では史実の珍とは『記・紀』の誰に当たるか?、

つぎはそれを詳しく検討してみよう。

倭王・讃が<ウサギ>の名をもつ<大雀命=仁徳天皇>であることは疑いないが、

彼には<ウサギ>によく似た名をもつ兄・<大山守命>がいる。

区別点を指摘すると、大ウ、山サン、守カミまたはモリ。

宇佐の神、または山守で、宇佐神宮の祭神か山を守る王でしかなく、

讃岐までを支配したのは語尾に王(キ)をもつ

<大雀・大山祇の仁徳天皇>しかいない。

『古事記』によると2人の父・応神天皇はこの2人の弟の

宇遅能和紀郎子(ウチノワキいらつこ)を後継者に選んだので、

大山守命は怒って弟を攻めた。

仁徳は父の遺志を尊んで弟を助け兄を倒した。

だから大山守命は宇佐以東へ行けるはずがないし支配者でもないから、

倭王・讃ではない。

この宇遅能和紀郎子が

<ウ=倭(オホ)=阿波>、<チヌ=珍=津名>、<ワキ=和歌・紀>という

名乗りをもっているから<珍>に合う。

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2010年6月17日木曜日

いま初めて立証された真実の天神様の実体

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:9頁

これで<珍・津名>の地名と名乗りが、

遠い南海から出発したことがわかる。

そこから一気に淡路まで進出したとは考えられないから、

珍の名は世襲で、

それぞれの地域には別の支配者がいたと考えるのが正しい。

藩のような封建的分治が行なわれていた証拠である。

それは<天神社>の数が多いことでも立証されている。

全国にある<天神社>は、

今ではほとんど全てが<菅原道真>が祭神だということになっているが、

道真が死んでから天神社が創建されたのではなく、

道真の崇りを恐れた<藤原系政権>が、

当時はどんな神が祭られているのか不明になっていた天神社に、

道真の怨霊を封じ込めたために、

道真が天神様だということになった経緯は有名な話である。

この時の天神社は京都市上京区の北野天満宮で、

正式名は北野神社である。

62代・村上天皇の天暦元年のことだから、

平安時代にはもう天神様の正体は誰も知らなかったのである。

いま私がお話しするまでは……。

そして僅かに<志筑神社>だけが<国幣社>として

『延喜式』に掲載されていた。

その延喜3年に道真は筑紫で病死したのだから、

<志筑>と<筑紫>は一見よく似ているが、

<志筑>のほうが道真よりも古くから存在していて、

道真とは無関係だと立証している。

こうした場合、名の類似だけで判断しがちだが、

これは「それはいけない」という警告にもなっているのである。


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2010年6月16日水曜日

綱敷(つなしき)天神とツナ政権の移動ルート

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:8頁


この志筑天神の前に<津名>を置くと津名志筑天神になる。

ツナシヅキ天神という発音を聞くとすぐ比較したくなるのは、

綱敷天神である。

大阪では阪急梅田駅のすぐ東隣りにあるし、

神戸市の須磨区にもある。

その名の由来はどちらも

「菅原道真が太宰府へ流された時、休憩するのに、

牛を引く綱を座布団代わりに敷いたから

「綱敷き」という名が生まれたのだ」と書いてある。

しかし牛を引く綱は細く長さも短い。

とても座布団代わりにはならない。

結局ツナシキに近い名の天神社の説明に困って、

無理やりコジツケたお粗末な言い訳でしかない。

本当の祭神は<志筑天神>こと

<津名之王(つなしき)=倭王・珍>以外にはありえない。

珍は梅田や須磨などに社を残していた。

それが<道真の社>と誤解されながらも現代まで生き延びた。

それは間違いなく<志筑天神の分社>だったのであり、

倭王・珍の勢力を立証する貴重な遺跡だったのである。

これらの<ツナ>の移動経路はどうなっているか?。

沖縄の<ウチナ>=<大天>を出発点とすれば、

鹿児島県沖永良部(おきのえらぶ)島に<知名(チナ)町>があり、

熊本県水俣市の北に<津奈木(ツナ王)町>がある。

ここは対岸に天草(あまくさ)の<御所の浦島>があり、

その向うには<栖本(すもと)町>がある。

これらで<洲本市>のある淡路島の地名のルーツだと一見してわかる。

鹿児島の加世田市津貫(つぬき)、

福岡添田町の津野、

山口県の都濃(つの)郡、宇和島市の天満、

徳島阿南市の津乃峰町などもその遺跡だという名をもっている。


『参考』

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『メソポタミア世界』
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ウワイト

2010年6月15日火曜日

志筑とは「津名王」の歴史的変形名

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:7頁

ついでに<志筑>とは何を意味するかもみておこう。

日本語の助詞「…の」に当たる漢字の当て字には、

<奴>と<之>と<津>がある。

奴はノ・ヌ・ナで、之はノ・シ。

津はツ・シンだが沖縄語では<チ>と発音することが多い。

<ツナ>が<チヌ>になるのはそのためである。

この助詞の漢字による<シツキ>への当て字を考えてみると

「之津王(シツキ)」とも書ける。

これは<之>の代わりに<津>、<津>の代わりに<奴>を当て字すると

<津奴王>で<ツナ王>である。

だから<志筑>はもともと<ツナ王>だったのだが、

こうした当て字の置き換えが行なわれて、

意味不明の名になってしまった。

それはこれまで幾度も例を挙げて説明したように、

『日本書紀』撰上直後に出された

『風土記』提出の官命にある

「地名には好字をつけよ」という命令で、

<木の国>が<紀伊国>に変えられたように、

都合の悪い史実を抹消しようという、

当時の政権の陰謀によるものだったとわかる。

こうしたことは複雑なように見えるが、

多くの当て字に分裂していても元は単純な一つの名なので、

分析は案外簡単で結論は明瞭だ。

だから地名の言語復原過程では

これは不可欠の必須検討科目であることを忘れてはならない。

こうした分裂、増殖は、さらに<姓氏>のうえに無数にみられる。

これに気づかないまま<日本人の姓>を

説明した解説書の類が市場に出回っているが、

それらにはこうした重要な史実を知らない根本的欠陥があり

無価値といっていい。

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2010年6月14日月曜日

珍王朝の首都・津名とは天の御桂のこと

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:6頁


では<ツナ>とは何を意味する言葉なのだろう?。

讃がパーリ語への当て字だったからこれもパーリ語か?。

パーリ語の[thuna]<ツナ>は<柱>のことで、

それも祭壇のような<神聖なものの柱>のことである。

だとすれば淡路島での「国生み」の時、

伊弉諾(イサナキ)尊・伊弉冉(イサナミ)尊が

天の御柱の回りを巡って国生みをしたという伝承は、

この<津名>というパーリ語と切っても切れない深い関係があることになる。

また<沖縄>の原名<ウチナ>は<大天国>と書いても<ウチナ>と発音するから、

<チナ>は<天>そのものでもある。

天の御柱とは<津名>というパーリ語の美しい訳語だということになる。

『記・紀』神話と呼ばれてきた中にある

「天の御柱」はパーリ語の[thuna]を訳した美称で、

今の<津名>はその遺物だったのだ。

淡路島の東南に面した暖かい中央部を占め、郡名にもなっている

<津名>は倭王・珍の時代の首都だった。

だから大阪湾が茅沼の海と呼ばれた。

<茅沼>は本来は<チヌ>ではなく<チヌマ>で

「チヌ国(マ)」だったから<沼の字>が使われている。

ということもわかる。

そのさらに中心部に<志筑(しづき)天神>という神社がある。

社殿は小さいが『延喜式』にも記載された格式の高い古社である。

この<天>は<ツナ>・<チナ>・<チヌ>そのもので、

この「天神」とは「津名のお上(かみ)」だった<倭王・珍>その人だったことは、

ここまでくると誰にでも理解できる。

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2010年6月13日日曜日

讃の出身地と遠征コースは鹿児島から四国まで

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:5頁


では彼の出発点は大分県北部の<宇佐>付近だったのか?。

念のため九州全域を調査してみると大隅半島に<大崎>(曽於郡)がある。

ここは現地では<ウサッ>と発音されていて、

<兎>を指して呼ぶ<ウサッ>と全く同じである。

倭王・讃の遠征前の所領とすればここが出発点なのである。

これと反対に終点と考えられる地名が近畿の堺市の南にある。

大阪府の<尾崎>(泉南郡)である。

ここの発音は<オザキ>で語源が<兎>だと思う者はいないが、

一連の歴史を知る私たちには、その関連が考えられる。

それは倭王・済(倭済イズミ)が和泉を所領に加えた後、

仁徳天皇を記念して何かを行なった遺跡名である可能性が、

充分考えられるからである。

倭王・讃は、<大崎>から<宇佐>へ進み、

四国へ渡って大三(ウサ)島から阿波・讃岐に至った。

この範囲がその名乗りの所領である。

だから四国から鳴門海峡を越えた淡路島には入っていない。

徳島・香川から淡路島に入ったのは、

その次の<倭王・珍>の時代ということになる。

珍は古音では<チヌ>。

大阪湾を茅沼(チヌ)の海と呼ぶ<チヌ>である。

ところが大阪側には<チヌ>という地名はない。

それは淡路島の地名・<津名>からきていると前号でお話しした。

沖縄語では<津>の字を<チ>と発音するから、

沖縄という当て字を生んだ元の名は<ウチナ>で、

<倭津名>または<大津名>を<ウチナ>と呼んだものに一致する。

<津名>の地名は<沖縄>と同じ語源をもっているのである。

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2010年6月12日土曜日

仁徳天皇のウサギの語源はパーリ語

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:4頁

ウサ・ウサギは哺乳類の兎で、

淡路島には<オサギ>と呼ぶ方言があることもご存知だ。

仁徳天皇の陵とされる

大阪府堺市の<大山陵>も<ウサン陵>で<兎の陵>だし、

それらを<御陵>と書いて<ミササギ>と読んできたが、

これも<オササギ⇒オサギ⇒ウサギ>である。

さらに朝鮮史とされている

『三国史記』には仁徳天皇と同時代の王が、

半島諸国の王として訥祇(新羅)・直支(腆支=百済)と書かれていて、

トッキ・トキ・テンキなどと発音されているが、

これは朝鮮語でやはり<ウサギ>を意味し、

南九州語でも<トッキョ>は<ウサギ>や<ムササビ>を意味するから、

新羅や百済でも仁徳を自国王として記録していたことがわかる。

倭の五王が用いている

百済、新羅の名乗りは決して架空のものではなかったことが、

これでも証明されているのである。

こうして<ウサギ>と発音されるこれらの兎の名の持ち主が、

全て仁徳天皇だったことは動かないが、

それは宇佐王が語源で、

単に発音が<ウサギ>に似ているだけなのであろうか?。

いや、語源はバーリ語なのである。

SaSa(ササ)は<ウサギ>のことなのだ。

だから<讃>とは地名からきた名乗りではなく、

仁徳天皇自身が本来もっていた個人名であり、

それは<ササ>と読まなければならないことがこれで確認された。

だから<オオササキ>とは、

倭(オオ)の讃(ササ・王キ)であり、

大隅発音で短縮されて、

初めて<倭ウ・讃サ・王ギ>という日本語が生まれたのである。


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2010年6月11日金曜日

倭王・讃=仁徳天皇=ウサギ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:3頁

倭の五王の名乗りは五人ともほぼ共通しているが、

最後の一字だけが異なって、

讃、珍、済、興、武に分れているので、

在来はそれが個人名だとされてきたこと、

その一字も私たちの個人名とは違っていて、

新たな支配地名を用いた名乗りだったこと、

それがそれぞれどこを意味していたかなどは、

これまでにすでに精密に検討を済ませているから、

ここではその「個人用の名乗り」を、

さらに詳しく解読することから始める。

讃は漢字音のまま<サン>と読むという説と、

<讃>に該当するのは<仁徳天皇>で、

その名は<大雀>または大鶺鷯と書いて<オオサザキ>と読んできたし、

讃良皇女は<ササラ皇女>と読むから、

<ササ>と読むのだという説とに分れている。

どちらが正しいか?検討してみよう。

倭王・武の上表文を分析すると、

その視点が大分県北部の<宇佐>あたりにあったことが確認できている。

また四国東岸の徳島・香川両県は、古名が阿波・讃岐だから、

<アワ=淡=オオ>で<オオ・ササキ>とも読める。

だから<宇佐>から四国東岸までが<仁徳天皇>の

勢力圏だったことは間違いないことを、

すでに本講ではさらに他の多くの物証を加えて確かめてある。

またこの2地域の間に愛媛県に<大三島神社>があり、

その<祭神は大山祇の神>だが、

<オオ>は沖縄~大隅発音で<ウ>だから、

<大山祇>も<阿波・讃岐>も<ウサンギ>と読め、

<大三島>もウサシマと読める。

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2010年6月10日木曜日

天孫降臨は何時か?ナラへの東征と時の証言

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:30頁

では『天孫降臨』の正確な時はいっか?。

念をいれて、視点を変えて再検討してみよう。

まだ一部の者が信じているように、

卑弥呼政権が3世紀に奈良にあったのなら、

4~5世紀の「国生み」は、奈良から出発して西へ向かって進行したことになるから、

五王の名乗りは

「高市・奈良県=武」

「河内・大阪府=興」

「倭済(イズミ)=泉州(イズミ)・大阪府=済」

「泉州・大坂府と紀州・和歌山県=珍」

「讃岐・香川県=讃」の順でなければならない。

なのに史実はその正反対に、

四国の名乗り

「大雀=阿波・讃岐」しかもたない倭王・讃=仁徳天皇が最も古く、

履中=倭王・珍が淡路島から大阪湾を越えて初めて対岸に入った、

という名乗りをもち、

以後の済興武の名乗りも現存する地名順に完全に一致して、

全て国生みと呼ぶに相応(ふさわ)しい

「大和朝廷誕生」への順序を完備し、

倭王がナラを確保した時期が、

武が上表した478年以後だったことを疑点を

残さず明白に記録している。

だから卑弥呼を奈良の女王だと主張する者は、

倭の五王を否定し、

大阪湾国生みを抹殺するだけの論拠を明示しなければならない。

我が国に保存されていた名詞文化財と伝承や出土品などの史実の記録は、

在来の学者が漠然と妄想していたような、

不完全かつ曖昧なものではなかったのである。

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2010年6月9日水曜日

天照大神が淡路島にいた証拠「大阪湾・国生み」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:29頁

でも最後に「天照大神とは何者か?」と確認しないと、

今回の主題の解明は肝心のところで躓(つまづ)く。

この謎の原因は、それが個人名ではなく、

次々に継承された称号であったために、

現実に「多数の天照大神が実在した」ことから、

『記・紀』が編集を間違えたか、

あるいは故意に混乱を作り出したのか、

どちらにしても別々の複数の史実が、

あたかも一つの史実のように見えて混在しているために、

簡単には読破できず、理解も困難を極めるからである。

だからそれらの記事をよく分析して、

それぞれの正しい時代、正しい位置に戻さないと、

その部分の天照大神とは誰か?、

何をしたのか?真相ははわからない。

だが『天孫降臨』の神勅を下した天照大神は、

明確に実在したイザナキ天皇の皇女だと確認できる。

講義録(院)05を補強すると、

履中天皇の伊邪本(ホ)を「伊邪木(キ)」に

訂正すると伊邪(イザ)ナ木(キ)だから

一層疑いはなくなる。

そして淡格島を舞台にした「大阪湾国生み」とは、

その履中天皇が倭王・珍(チヌ)で、

和泉と紀伊を最初に確保した天皇政権を意味し、

その際の皇后との論争が、

御柱を巡つて交わされた男尊女卑論議説話の実体なのだから、

「国生み」とは倭の五王政権が初めて大阪湾以東の、

後のヤマト政権圏を確保した史実の神話風表現で、

その真相は夫妻が戦争か平和かと国是を争った高度の哲学、政策論争を、

男女の発音の先後で象徴した、

大層意味深いものなのだ。

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2010年6月8日火曜日

眼に見える『日本書紀』編纂会議の様子

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:28頁

『日本書紀』編纂会議の席で雄略天皇関係の史料を読んでいた役人がいう。

「この宋への上表は、

はっきり臣従を誓っていて私たちが唐人に教えようとする我が国の権威を

台無しにしてしまいます。どうしたものでしょう?」

「誰かいい考えがあるか」

「省くわけには行きませんから、

いっそ神話にすれば別の事件になって問題はなくなります」

「皇后を天照大神の称号だけにし、

天皇の名乗りは天から天降った話がありますからその名を使いましょう」。

「うむ…それがいいな、瓊瓊杵の命か。

それなら幼武天皇とは思わない。よく考えたぞ!」

かくて新版『天孫降臨』「神話」が加わった。

編纂会議はこんなものだったのである。

本来の瓊瓊杵のカラ国降臨が鹿児島の姶良行きだったことは

すでに本講で検討済みである。

その原形と混合したのだから『天孫降臨』は、

まるで幼稚な野蛮人の伝説になってしまった。

それを「神聖」と信じている日本人の頭を、

心ある外国人たちは疑い、蛮人視する者も多い。

在来の日本史家の説明程度ではそれをどうすることもできなかった。

それは武の上表の内容が、そんな劣等感を抱かせるのは何故か?

と疑問視して、

始めてこれまでみてきたこの結論に結びっくのだからからである。

それさえできれば

「武の上表文」は

私たち日本人にとって恥かしいどころか史実を語る凄い至宝で、

決して恥じでも無用の記録でもなかったのだ……。


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2010年6月7日月曜日

何が史実を神話化させたか

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:27頁

倭王・興は『三国史記』では百済蓋鹵王と記録されていた。

彼はその巨大古墳築造事業が過激すぎて国家経済を破壊し、

そのために国を失ったことは、

拙者『誰が巨大古墳を作ったのか』

(KKロングセラーズ)でも詳しく解説してあるし、

本講でも『三国史記』を引いてお話しした。

その時失った旧傾こそ「豊葦原瑞穂の国」だったが、

それを奪ったのは高句麗・長寿王=敏達天皇である。

それを天照大神が

「あの国は私の子孫が王たるべき土地だ。

汝が行って取戻して治めよ」

と命じたのである。

だからそこに天降って天孫降臨を実現したのは

倭王・武=雄略天皇以外にない。

これが『天孫降臨』の真相で全て史実だったのである。

だから武が宋帝へ送った上表文=手紙は、

こうした背景の下に書かれた援助要請だった。

それまでの上表文とは非常に異なった、

父祖が辛苦して領土を得た状況を説明して悲憤し、

自ら臣下として助力を要請する内容は、

それを天皇家の史実とすることが恥じられて、

五王を天皇と認めない学者を生んだ。

しかしこうして当時の真相がわかってみると、

雄略天皇の上表は当然至極なことで何も恥じることなどない。

むしろ私意で歴史を曲げた者こそ恥ずかしい。

しかし『記・紀』を編纂した天武天皇たちも、

その編纂の目的が国域と天皇家の権威の誇張宣伝にあったから、

真実は書けず、神話化してごまかすしかなかったのである。

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2010年6月6日日曜日

「葦(ナラ)」は興が占領し、武が取り戻した領土

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:26頁

津名はチヌだから天でもある。

その女王をジョオーと発音して

「照」を当て字した可能性もある。

その孫に当たるのは倭王・興か武である。

彼らは間違いなく奈良に侵入し、

高市郡や高田市一帯を所領に加えた。

確かに神勅にある「葦(ナラ)」を支配した天皇たちである。

しかし武は五王の一人として、

父祖の遺産である摂河泉と紀伊を受け継いだのではなかったか?。

いや彼だけが、

いったん失われたそれらの領土を、神勅どおりに奪い返しているのである。

このことは、これまでの講義録で到達した答を訂正させる。

それは武が初めて高市を取ったから武を名乗ったという部分である。

それは誤りで、

高市郡一帯を取ったのは、

高をコウへの当て字とした倭王・興だったからである。

そうでなければ神勅に「葦(ナラ)」が入っているはずがない。

そこはすでに武より先に誰かが領土に加えていた。

その先人とは名乗りの最後に最新の所領地を書く

倭の五王の名乗りの原則からみて、

高も興もどちらも「コウ」だから、

倭王・興でなければならない。

しかし彼はそれを奪われてしまった。

それを取り戻せというのが

『神勅』の真意であり命令だったのだと、

ここで今、はっきりわかったのである。

だからこそ武は、

高市を「コウチ」から「タケシ」に発音を変えた。

そして自分の名乗りに使う最新の領土名を、

強く勇壮な「武」の字を選んで「タケシ」と訓ませたのだ。

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2010年6月5日土曜日

津名は「神勅の天照大神」の遺跡

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:25頁

天照大神の名はもともとギリシャ神道で

「天のゼウス」に当てた当て字だったが、

巫女の卑弥呼が仏教王になったことで意味が変わって

「尼寺師(テラス)」になった。

「寺師」をテラスと発音する「寺師」姓は現在も南九州に残っている。

しかし当時これを「アマテラス」と読んだとは決まらない。

パーリ語の their は「長老尼」のことだから、

アマテリへの当て字だった可能性もある。

また大神は大学院講義録03の14の

パーリ語 ukkamsa =大神様から発展した

「オカミさん」のオカミで、

「女将」と書く通り女性の長(おさ)を意味する当て字でもある。

ついでにお話ししておくと

丹波も津名と全く同じ「柱」を意味する

パーリ語thambaである。

その命名者は、

津名という名詞を使わないが、

同じ意味に同じ「柱」を使い、

それをパーリ語で表現しているから、

やはり仏教徒であったことは間違いない。

淡路島の方は漢字は津名を使っているが、

古代には「チヌ」と発音していたことが、

チヌの海という発音に残っているのだから、

その命名者は沖縄語または大隅語を話す人だったし、

彼と行動を共にした人々もまた、

南九州または沖縄からやってきたことを物語っている。

以上で『津名』が俵王・珍=履中天皇と天照大神の遺跡であり、

重要な名詞文化財であることが確認できた。

次は天孫・瓊瓊杵の命とは誰を指しているのか、考えてみよう。

『参考』

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2010年6月4日金曜日

渡海とピタゴラスの定理(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    158~160頁

 ここで魏志の原文を御覧戴きたい。

 「始度一海千余里至対馬国」

 「又<南>渡一海千余里名曰瀚海至一大国」

 「又渡一海千余里至末盧国」

 となっている。

 <対馬>から<一大>へ渡るのを特に南と指示している

 (他の二つは方向の指示はない)。

 この<一大>が後の<壱岐>であることは明瞭だが、

 それではこの南はオカしいということになる。

 対馬北端の現在の上対馬あたりからなら南であるが、

 当時の小船を考えると島の沿岸伝いに<南端>へ来てから

 海峡を横断したはずだというのである。

 これなら東南行であって南とはいえない。

 というのがこれまでの説の大半を占めている。

 そして、これを理由に、魏志の方位はあてにならないとして、

 末慮以後の方角を論者に都合のいいように

 勝手に変更してしまったのである。

 だからここの南の一字は、以後の方向決定に

 重大な意味をもっている。

 この<南端>からという意見は至極合理的であるから、

 北端からだったと逃げをうたずに、

 この問題を解決する必要がある。

 この問題の重点は従来の邪馬臺論者が、

 見落すことのできない大きな要素を考えることも

 できなかったところにある。

 それはわざわざ陳寿らが特記した

 <瀚海>すなわち<玄海灘>の激しい潮の流れである。

 この海峡は黒潮の分流対馬(つしま)海流が北東へ流れ、

 <対馬>と<壱岐>によって

 狭められた上に海峡は最深部でも80mと浅くなっている。

 ちょうど水道のホースの筒先をつまむと

 水が勢いを増して噴き出す原理と同じで、

 流速は加わり、水流は複雑になって荒れ狂う海域なのである。

 陳寿は「瀚海」の二字を明示しておけば、

 当然これ位いのことはだれにでもわかると考えていたのである。

 これを乗り切るためには目標へ真っ直ぐ進んだのでは、

 北東へ流されてしまう。

 図でおわかりのように船は<真南>へ進めねばならないのである。

 当時の人々はピタゴラスの定理以前に

 体験でこのことを知っており、

 真南へ進むのが常識だったのである。

 なぜなら<対馬>と<壱岐>の人々は南北に市糴して、

 数千戸の人口を養う米や穀物をこの荒海を乗り切って

 運んでいたことを忘れてはならない。

 このことは当時の船がかなりの大船であり

 帆船であったことを示唆している。

 数万の人口を養うには当時の乏しい食生活を

 計算に入れても米に換算して

 年一万石をこえる穀物が運ばれたことになる。

 丸木船で手漕ぎでほ、とうてい不可能な数字だからである。

 またこの海流の平均流速約4kmを考えても、

 重量物を載せて手漕ぎで渡海することは不可能である。

 平水面で瞬間的に

 時速10km以上出せるとしても50kmの荒海を乗り切る場合には、

 波浪によるオールのロスと肉体疲労を考えれば、

 自分自身を運ぶだけがやっとであるという計算になるからである。

 「図:「南行」とピタゴラスの定理」(加治木原図)

 だからこの海峡横断は風力の利用なくしてはあり得なかった。

 市糴自体、一年に一回の収穫時のもので、

 現代のように年中無休の米屋があったわけではない。

 大量の塩干魚や千若芽(ほしワカメ)などを積んで行って、

 米や粟と交換して帰る時期は限られた一ケ月程であった。

 その間に一万石前後を運ぶということは、

 から荷で自身を運ぶのがやっとの手漕船ではなかったことを

 証明しているし、

 また卑弥呼の遣使のうち年月がしるされているものは

 一度だけだが、

 それが六月であったことも季節風を利用しての北渡で

 あったことを証明している。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

実在した天照大神の社(やしろ)をもつ倭王・珍の都「津名」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:24頁

次の「津名」はパーリ語では「tuna 桂」のことである。

『国生み』のところでお話ししたように、

伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)は天の御桂を立ててその周りを回る。

津名の名は、その御柱を意味している。

沼島にある立神岩もその御柱だが、

それだげではなく、津名そのものが巨大な御柱だったのである。

御柱とは「国家のセンター」を意味していたのだ。

そしてツナは沖縄発音だと「チヌ」。

倭王・珍の本領だったことがわかる。

大阪湾がチヌの海と呼ばれたのは、

淡路島の津名からみた大阪湾をチヌの海と呼んだ名残であって、

紀伊はチヌが語源でも、キノ国になった発音変化後の紀州からでは、

大阪湾にはチヌの名はつかない。

なぜなら友が島などの島々が大阪湾と紀淡海峡を

区切っていて和歌山は無縁だからである。

それでもまだ一歩譲って、命名したと仮定してみても、

その場合は「キノ」であってチヌにはならない。

どこからみても「チヌの海」は、津名が主体の名だったのである。

チヌが沖縄語ではテンの発音変化で、

「天」を意味することは常識だが、

その津名町には天神社があり

『延喜式』にまで記載されている古社であることは前にもお話しした。

これも津名が「天」であることを明確に証明している。

だから当時の天照大神がいたのは津名だと断定して間違いない。

天神はその略称で、本来の釧み方は「アマツカミ=尼津上」である。

『参考』

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2010年6月3日木曜日

瓊瓊杵(ニニギ)の命の出発点は何故?淡路島か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:23頁

以上で、

神勅の豊葦原瑞穂の国も、天孫降臨とは何であったかも、

その時期もわかった。

それは在来の解説が唱えたような神話ではなく、

現実にあった有史時代の史実だった。

さらにその変動がどこまで波及したかもわかっている。

またこれで、天孫降臨は従来いわれてきたような

「天皇政権正当化用の作り話」でもなかったことの確認もできた。

ではこの天孫降臨という史実の細部はどんなものだったか?。

なぜそんな国土回復が企てられたのか?。

主人公の瓊瓊杵(ニニギ)の命や天照大神とは維だったのか?。

考証に入ってみよう。

豊葦原瑞穂の国の範囲が詳細にわかり、時代もはぼわかったから、

それは倭王・済の反正天皇か倭王・興の安康天皇以後の統治圏だとわかる。

そこへ天から降臨するというのだから、出発点は天の国。

テンかチヌかアマのつく地名のあるところである。

それなら大阪湾の対岸にある。

前にもお話しした

倭王・珍(履中天皇)や倭王・済(反正天皇)の基地だった淡路島で、

そこにはアマ(阿万=南淡町)があるし、

津名郡のツナがチヌであることもご存じの通りである。

これらの地名が古代からのものであることは、

『記・紀』に「淡路の海人(あま)」という名があることでも確認できる。

これらの天は海女であり尼でもあって、

それは建国史解明の最強の切り札=「卑弥呼の仏教女王制」社会が生んだ

歴史的な産物だったのである。


『参考』

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2010年6月2日水曜日

政権交替の相手は先行倭国(旧卑弥呼政権)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:22頁

また、大阪府下の巨大古墳群も安康天皇=倭王・興=百済蓋鹵(コウロ)王が、

高句麗の僧・道琳に教えられて作った父祖を供養する仏教のスツーパ=卒塔婆で、

前方後円の形は仏教の聖山・須弥山(しゅみせん)を象ったものなども、

拙著『邪馬臺国の言葉』、

『日本人のルーツ』、

『真説・日本誕生、誰が巨大古墳を造ったのか』

などで考証済みであり、

応神天皇陵の円墳頂部には

印度サーンチーの舎か迦仏塔の頂部にあるのと

同じ意味の九輪塔があって、

応神天皇が八幡大菩薩という仏号で呼ばれていることとも併せて、

仏教建物であることは周知のはずであるから、

いまさら合子(ごうす)形石製品を持ち出すまでもないが、

それが

「ヤマトでは前期中葉-後半の古墳にみられる副葬品である」

事実は、

『天孫降臨』の時期を計る尺度として貴重なのである。

またそれは旧卑弥呼政権の南九州からの移動が、

倭の五王系の移動に先だっていたことを証明する。

それもまた和泉黄金(こがね)塚古墳の景初三年鏡などが立証していたが、

この合子(ごうす)形石製品の洗練された姿と量はそれに勝る説得力がある。

弥生時代の開始期に水稲稲作農業と金属工業をもって仏教の宣布にやってきた

ウッタラと銅鐸と古墳群。

その後へ3世紀半ばに南九州を追われてやってきた旧卑弥呼政権と古墳群。

それを追って奈良にはいった5世紀の倭王・興と武の古墳群。

3者は全て仏教徒だから

「葦(ナラ)」が仏教圏だったことは明瞭なのである。


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2010年6月1日火曜日

特に注目してほしい合手(ごうす)形石製品

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:21頁

あとは前記のとおり副葬品の鏡や武具や、

筒形や琴柱(ことじ)形や合子(ごうす)形、鍬(くわがた)形、

紡錘車(ぼうすいしゃ)形、るつぼ(柑)形、

農耕具形などの石製品、曲玉や管玉などの装飾品。

特殊な文物として家屋文鏡や環頭と、

きぬがさ(蓋)形埴輪を代表とする

器材埴輪といったものが展示されている。

この中で特に重要なのが合子(ごうす)形石製品である。

合子(ごうす)は現在も寺院で香器として

使われているものと全く同じといっていい

蓋付きの円形容器で、短い脚がついている。

この姿は戦前まで、まだ使われていた、

花見などの行楽時に弁当などを天秤棒で担いでいく道具の

「行器(ほっかい)」にそっくりでもある。

ただ内容物が違うから大きさが変わるだけである。

行器(ほっかい)は薄く軽く削った木を曲げて造った漆器であるから、

合子(ごうす)も本来は漆器だった時代の姿を、

その脚に残していると考えていい。

仏教の香具はいうまでもなく死者を弔うためのものである。

それが副葬品の中に必需品として入っているのは当然のことだが、

それらが遺品として存在するということは、被葬者が仏教徒であり、

その文化がインドからのものであることを証言している。

私たちはすでに古墳が仏教のスツーパ(塔・卒塔婆)であることを知り、

奈良には大太郎法師・ダイタラポッチのウッタラが早く布教して、

銅鐸などを残したことを知っている。

前記の円墳・方墳以前の前方後円墳は彼等のものである。

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