2010年2月28日日曜日

日本古代王族の婚姻系譜(15)(16)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:21・22頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 2 故国原王の妃、備前車塚古墳周辺古墳披葬者の推定

 美川王の后は周氏(石勒のこと)の娘で、

 息子が故国原王と弟の「武」である(高句麗本紀)。

 しかし、もう一人、娘がいたのではないかと想定すると、次の系図になる。

 「系図G'」

 7       8       9

 美川王 ∥ |故国原王∥ |小獣林(伊集院)王
 石勒の娘∥_   妃 ∥_|故国壌(隈之城)王
       |武
       |娘   ∥_|石川宿祢          ′
        武内宿祢∥

 備前車塚古墳が美川王の墓であることは

 前稿(「七支刀」)で推定(特定)したが、

 このG'系図に周辺古墳の名を加えると、次のようになる。

 なお、これらの周辺一群の古墳群が、

 備前車塚古墳の一族のものであることは、

 どの本を読んでも(著者名は略)承認されているようなので、

 なにも付け加える必要はないと思う。

 ただし、未発掘なのかどうか、

 発掘報告の記録を読んでいないので、副葬品、棺の方位は吟味していないし、

 古墳の方位や相互の位直関係は図表によって解るものの、何も吟味しておらず、

 ただ古墳の規模と古墳名を検討対象にするだけだから、

 きわめて浅薄な推定にすぎないことは認めなければならない。


 「系図G」 

   7          8        9

美川王      |故国原王
 (備前車塚古墳)━|武(山王山古墳)━|神宮寺山古墳150m
   50m        70m    |金蔵山古墳 160m
          |娘   ∥  
           武内宿祢∥   _|石川宿祢
           (網浜茶臼山古墳)   (湊茶臼山)150m
             80(又は120)m


 このG系図を理解しやすくするために、

 もう少し周辺の系図を加えてふかん図を構築してみると、次のようになる。
   
 「系図H」
   4        5       ・6      7      8

 |大筒木垂根∥_|息長日子王∥_|千熊長彦━|真浄   ━ 武内宿祢
  管韓多羅 ∥  附志   ∥       |石虎   ━|15人の息子
                              |娘   ∥
         |虚空津姫  ━|石勒  ━|娘   ∥_|故国原王∥
         |息長帯姫                |武
          位宮   ∥_|咄固  ━|美川王 ∥ |娘   ∥  
                               武内宿祢∥
 |中日女   ━ 多婁王   ━ 己婁王 ━ 蓋婁王  ━ 玉彦姫
                              (姪岡陋姫)

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年2月27日土曜日

日本古代王族の婚姻系譜(13)(14)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:19・20頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 以上のように、

 系図A、B、C、Dが3世紀後半から4世紀前半にかけての、

 日本列島(九州大陸)と朝鮮半島、中国大陸における歴史上の重要な人物で、

 だれ一人残らず実在者である。

 高句麗王、前新羅王統譜はみな、伯固の子孫であることが理解される。

 仇道の子の末仇と休札夫妻の子孫は別に大切であるから、

 次のような略系図を復原しておいて、補講として論じることにしたい。

 「系図E]

   3   4     5      6          7

 末仇∥_|末仇2_|末仇3 _|扶余王玄     _|奈勿王
 休礼∥       (比流王) (奈勿王356~)  (~402)
                |娘         |企利


 この系図Eの6代目のときから、

 石城別王との対婚が発生しているようなので、後に検討してみる。

 なお、ついでのことであるから、

 金官加羅国王統譜の後半部分(の一部)を解明しておきたい。

 「系図F」

  3    4      5     6    7    8    9    10     11  
  12

 八坂王━大筒木垂根━息長日子王━千熊長彦━真浄 ━武内宿祢━石川宿祢━菅韓子 ━大河音宿祢
 ━都奴牟斯

 奈解_|大新河  ━多婁   ━己婁  ━蓋婁 ━多遅麻 ━大別  ━戸田  ━紀生磐
 ━紀大磐                         (伊尺品)(坐知) (吹希)

    |十市根  ━汾西   ━胆咋  ━五十琴━伊呂弗 ━洛   _|木事 ━市川臣   ━久爾辛                    (仲哀天皇)     (阿華)
                                    |木蓮子━太郎子   ━乎非王

 F系図の五十琴が前首済13代近消古王(346~375)、

 多遅麻が14代近仇古王(375~384)に該当することを、

 前稿(「七支刀は同時代遭物か?」)において検討した。

 F系図一列目(八坂王の列)の7代真浄までが

 金官加羅国王統譜の前半である。

 しかし、同王統譜の後半は、二列目(大新河の列)の

 8代目多遅麻からに移行していることが理解されよう(10代目戸田=的=紀小弓)。

 この多遅麻が(「も」)武内宿祢であることも前稿でみておいたことである。

 11代目紀生磐以後については別項で鮮明する。

 なお、大別は前百済16代辰斯王であり、

 記紀の葛城長江襲津彦であることも、前稿で解明した。

 さて、大筒木垂根、菅韓多羅夫妻について、若干の言及をしておくと、

 この夫妻の名がどういう地名を反映しているかについては、

 加治木先生の通信講座に導かれて前稿でおこなったし、

 南朝鮮の「多羅」は僕自身は田中俊明氏の本を紐解いて確認した

 (「大伽耶連盟の興亡と『任那』」吉川弘文館)ものの、

 それだけではなんのことかわからない、

 というのが正直なところである。

 ところが、加治木著「おとぎ日本誕生」(徳間書店)によると、

 竹取物語のかぐや姫は壹與であり、

 その両親がこの難しい名の夫妻にあたるとなると、

 話は別である。

 本年のNHK教育テレビ新春番組でも、

 これらの人々をモデルにした舞踏劇が放映されていた

 (深夜長時間番組のフィナーレの部分)。

『参考』

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2010年2月26日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜(11)(12)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:17・18頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 これは金仇遁

 (「魏書倭人章」の伊声耆イシェンギに該当)の三人の息子(三兄弟)がピッタリと、

 系譜としても、

 新羅王統系譜としても、

 代数(11→12→13)、

 在位年代としても、きれいに復原出来たということにならざるを得ない。

 末仇の「末」は「末羅(廬)」「馬韓(マ又はウマ・ガ・ラ)」、

 仇は「喜入」又はアダ(吾田地方=南九州)になるから、

 沾=テン=添=ソ=襲=ソツヒコ=襲津彦と完全に一致してくれる。

 彼の行動領域が解るとともに、

 当時倭国の北の端とされている狗邪韓国の王が彼だったのではないか、

 ということまで推定させてくれるのである。

 なお、高句麗王統譜の

 「伯固→抜奇→伊夷模→位宮(東川王)→難升米(中川王)→哀邪本王(西川王)→
  
  初小(岩衝別王=烽上王)→美川王→故国原王…」

 についてはもういいだろうと思う。

 この解説は本稿の課題ではなく、

 今後の別稿での繰り返しての吟味と解説、再解明、精密化の際の課題である。

 とはいえ、せっかくの解明であるから、もう少し系譜の解明を継続する必要がある。
 
 位宮(東川王)     ∥_|咄固
 壹與(新羅初代朴赫居世)∥  (儒礼王、基臨王)∥_|美川(肥前、備前)王
                菊池姫      ∥

 これでみると、高句麗王統譜と(前)新羅王統譜はあきらかに交錯(?)している。

 この図のうちの、菊池姫の系譜的な位置はおよそ次のようになる。     

 「系図D」

  1    2      3     4      5     6     7

 伯固 ∥_|仇道              |多婁王∥_|己婁王(陳元達)
 忍日女∥ |内礼∥_|奈解∥_|大新川  _  清姫∥ |菊池姫(咄固の妃)
       伊買∥_|昔 ∥  (難升米)       |比メ古∥
                 (中川王) |高田姫
                       |比メ古∥_|胆咋 ∥_|五十琴

                |十市根  _|汾西王∥
                 (都市牛利)|附志
                       |清姫
                |玉姫
                 (哀邪本王の妃)

『参考』

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2010年2月25日木曜日

日本古代王族の婚姻系譜(9)(10)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:15・16頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 次は「系図A」の4代、5代の兄弟柿妹関係をみておく必要がある。

 「系図B」

   2          3      4           5

          _ 八坂王∥_|大筒木垂根     ∥_|息長日子王
 |抜奇              菅韓多羅      ∥_|息長帯姫(壹與)
 |伊夷模    ∥_|真敷 ∥ |八坂入姫 ∥      |虚空津姫(弟姫)∥
  ヨソ足姫   ∥ |位宮     烏越  ∥     _|大碓      ∥
                 |中日売      ∥
                   大新河(難升米)∥ _|多婁
                              |比メ古
                              |高田姫
                 |時姫         ∥
                   十市根(都市牛利) ∥_|汾西
                               |清姫
                               |附志
 |抜奇
 |伊夷模
 |内礼    ∥ _|奈解 ∥_|大新河(難升米)
伊買    ∥    昔 ∥ |十市根(都市牛利)
                 |玉姫(西川王の妃)
           |阿爾兮∥_|菅諸男(烏越)
 |仇道    ∥        |菅韓多羅
  公孫度の宗女∥ _|臣濆沽∥ 
     
 石勒とその后、押黒弟日子王とその妃、大碓については後に解明する。

 A系図には書き入れていないが、真浄の弟が石虎で
、石虎の后は劉曜の娘である

 (美川王妃が石勒=周氏の娘であることは「高句麗本紀」に、

  劉曜の妃が羊氏であること、

  石虎の妃が劉曜の娘であることは「載記」に出ている)。

 次に、高句麗王統譜、前新羅王統譜の「実際の系譜」は次のようである。
 
 [系図C]

  1        2      3       4       5
              

 伯固 ∥  公孫度の宗女∥_|臣濆沽
 忍日女∥_|仇道    ∥ (助濆王)  |狭穂彦
       息長水            |狭穂姫∥_|初小(烽上王)
       依姫    ∥_|味鄒 ∥ _  位宮∥
                光明 ∥  |哀邪本王(西川王)


 C系図のうち、臣濆沽と味鄒の間に末仇がいる。

 これを略図にすると、次のようになる。


 仇道_|臣濆沽(助濆王) 新羅11代王 230~247
    |末仇 (沾解王) 新羅12代王 247~261
    |味鄒王      新羅13代王 262~284

『参考』

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2010年2月24日水曜日

日本古代王族の婚姻系譜(6)(7)(8)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:12・13・14頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 1 3世紀後半の系譜(高句麗、前新羅、前金官加羅国)

 3世紀後半と4世紀とを区切ることは、何も意味はないから、

 4世紀前半くらいまで系譜を延長してみると、

 現実の歴史が見えてくるようになる。

 それは、日本古代史では実在牲が認められないか、

 実在者としての認識が薄い(?)とされている人名と、

 実在の確実な「中国の歴史書」中の人名とが、

 実は同じ系譜に結び付くものだったからである。

 まず、これから系譜を読みやすくする意味でも、

 次の系譜を、番号を付けて示しておくのが便利と思う

 (伯固を初代=1代目=1とする)。

 「系図A]

  1     2      3       4    

 伯固 ∥_|抜奇 ∥_|八坂王 ∥_|大筒木垂根∥
 忍日女∥  竹野姫∥ (掖邪拘)   菅韓多羅 ∥
             真敷  ∥
     5       6       7         8 

 _|息長日子王∥_|千熊長彦∥_|真浄     ∥_|武内宿祢 ∥
   附志   ∥  大碓の娘∥  押黒弟日子の娘∥  美川王の娘∥
     9     10   11     12

 _|石川宿祢∥_|菅韓子_|大河音宿祢_|都奴牟斯…
               (伊自牟良) |久留米姫
              |中斯智

 この図の10代菅韓子は別に筒木韓人や奴理能美の名がある。

 また、この図の11代と12代は有名な継体天皇(オホド大公王)の祖先系者として、
 研究者によく知られている部分である。

 といっても、正しい認識はなされていないようであるが。


 すなわち、

   11          12          13

 大河音宿祢    ∥ |都奴牟斯
 真猪(田井ノ中姫)∥_|久留米姫
            |振(隼人町)姫

 太郎子      ∥_|乎非王   ∥_|余慶(蓋盧王、倭王興)
 中斯智(中姫)  ∥  久留米姫  ∥
            |汗斯王   ∥
             振姫    ∥_|オホド大公王(継体天皇)


 である。

 太郎子と真猪(田井ノ中姫)は兄嫁であることはいうまでもない。

 5、6、7、8代の人物の妃をみておくと、次のようである。

 5代目の人物の妃(附志)

  都市牛利(十市根)∥_|汾西
  時姫       ∥ |附志   ∥
              息長日子王∥

 6代目の人物の妃(大碓の娘)、7代目の人物の妃(押黒弟日子王の娘)

  烏越  ∥_|大碓∥_∥_|石勒    _|娘(美川王の妃)
  八坂入姫∥  虚空津姫∥ |押黒弟日子王_|娘  ∥     
         (弟姫)  |妹    ∥
                千熊長彦 ∥_|真浄 ∥_|武内宿祢
                       |石虎


 ここに、虚空津姫は息長日子王の妹である(弟姫)。

 また八坂入姫と時姫は柿妹である。

 8代目の人物の妃(美川王の娘)

  美川王 ∥_|故国原王∥
  右勒の娘∥  石虎の娘∥
        |武
        |娘   ∥_|石川宿祢
         武内宿祢∥

 「系図A」はそのまま前金官加羅国王統譜である。

 すなわち、

  抜奇    首露王

  八坂王   居登王     199~259

  大筒木垂根 麻品王     259~291

  息長日子王 居叱彌王前半  291~

  千熊長彦  居叱彌王後半     ~346

『参考』

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2010年2月23日火曜日

日本古代王族の婚姻系譜(4)(5)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:10・11頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 なお、この論稿(以下、「本稿」と表現する)においては、

 ところどころ名乗りとしての地名や、

 相互の歴史的関係、史実を解明する場合もあるが、

 論述のポイントはあくまでも「結論としての婚姻関係」の解明である。

 と同時に、多少の論証を試みることはあっても、

 この点に主要な力点を置いているわけではない。

 従来の日本古代史解明(系譜の解明はその重要な一部分である)の弱点は、

 男子の系譜のみをみて、「妃は誰か」「母は誰か」をみないことである。

 本稿は、この点に力点を置いた、ということが出来ると思う。

 ただし、「異世代婚」「対婚」「いとこ婚」の原理的解明(あるいは論述)の

 課題については、別の難題であるから本稿は回避した。

 この点については小島信一「天皇系図」(新人物往来社)の中で、

 小島氏が自ら論じ、又文中に引用している吉野裕氏の解明が参考になった、

 ということと、仁賢6年9月条の鮒(原字は難しい文字)女の段や、

 その部分の岩波日本書紀の解説、それとギリシャ悲劇のモチーフが、

 これらのテーマをふんだんに扱っている

 (母や娘を妻にして子を生むなど…)などのことを

 指摘するだけにとどめる(これでは何のことか解らないであろうが)。

 なお、以下の系譜(の人物たち)は大部分、

 九州大陸ないし九州大陸出身の人物の系譜であって、

 奈良大和や畿内はほとんど無関係である

 (純粋に100パーセント無関係というのではない)から、

 副題を添えた次第である。

「大和政権」の文字だけが頻出して一人歩きしているのが

 (「歩いて」いる訳でなくただ「浮遊している」だけである)

 「大和説」の特徴である、と言える。

 いくら大勢の学者や各紙報道媒体、出版媒体、奈良の研究機関などが

 総動員体制で

 「大和政権」の文字を連呼唱和し、振り回しても、

 具体牲を持った人物(人名)が出現しないから

 (それと、年代を一つ一つ限定しないことと補完しあって)、

 それは永久に「歴史」ではない。

 歴史学は歴史(史実)を解明する学問であって、

 「大和政権」をもてあそぶ学問(?)ではない。

 大学で少し「大和説」を齧った程度の古代史分野担当記者が

 扱えるような分野ではないのが、日本古代史学なのである。

 メルヘン史学を直接の批判対象にとりあげる暇は、

 今の僕はとても持ち合わせていない。

 一言で言えば、大和説は批判の値打ちがない。

 「実態のない歴史」は吟味することも批判することも出来ない相談というものだ。

 歴史とは、

 具体的な人(人物)とその周りの集団の行為の経過の総合なのではないだろうか。

『参考』

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2010年2月22日月曜日

日本古代王族の婚姻系譜(2)(3)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:8・9頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

     柿本一征(かきもとかずゆき) 言語復原史学会正会員

  拙論一覧

 1 倭国連邦の興亡(上)  一女子が王になるまで

 2 倭国連邦の興亡(下)  大海姫の解明(吉備楯築弥生墳丘墓被葬者の特定)

 3 抜奇勢力出雲上陸の基礎的解明(「スサノオ神話」の解釈を含めて)

 4 卑弥呼一族の系譜解明

 5 列石遺跡築造の時期と勢力の解明

 6 ホケノ山古墳被葬者の特定(金味鄒の解明)

 7 「七支刀」は同時代遺物なのか? ━故国原王、近肖古王に至る系譜解明━

 8 日本古代王族の婚姻系譜(本稿)

 日本古代史関係の本を読むと、随所に「系譜」の紹介が見られる。

 それは、多くの場合「異世代婚」である。

 異世代婚とは、自分のおば(父母の姉妹)との結婚、

 あるいは姪との(兄弟柿妹の娘との)結婚である。

 現実問題として、世代として自分の娘のみならず、

 孫の世代にあたる女性と結婚して子供を設けることはあり得るし、

 事実としてもそういうケースは少なからずあった。

 日本古代史の場合、

 ただ「娘の世代の女性」「孫の世代の女性」というのではなく、

 必ず、「姪」「甥、姪の娘」になっている(男性からみて)。

 他方、(これから解明していくように)

 対婚━互いに相手の姉妹と鈷頼する(男性側からみて)形式がある。

 この場合は、

 全く別系統の氏族との関係というのではなく(そういう場合もあったろうが)、

 兄弟柿妹の相互間の息子、娘においてである。

 これは、言い換えると「いとこ婚」ということになる。

 男性側からみて、おじおばの娘との結婚が「いとこ婚」である。

 日本古代史にみられる「異世代婚」は、

 この「いとこ婚」のことだったのではないか?

 という着想のもとに、系譜の復原を試みてみると、どうやら現実問題として、

 古代の王族達はそういう婚姻形式を守り続けたようである。

 以下、「いとこ婚」がおこなわれていた

 という想定のもとに、古代王族の系譜復原を試みてみたい。

『参考』

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2010年2月21日日曜日

日本古代王族の婚姻系譜(1)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:7頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 ━大和説は歴史の捏造━

 目次

 はじめに

 1 3世妃後半の系譜(高句麗、前新羅、前金官加羅国)

 2 故国原王の妃、備前車塚古墳周辺古墳被葬者の推定

 3 北九州列石遺跡(おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定

 4 布都久留の鹿児島王朝、鷲住王の息子カゴサカ・オシクマ皇子

 5 末仇と味鄒の子孫

 6 五人の継体天皇、六人の欽明天皇

  (1) 5人の継体天皇と継体妃

  (2) 6人の欽明天皇と欽明妃

  (3) 稲目

  (4) 牟宜都君等の祖押黒弟日子王
  (5) 16世道設智王(月光太子)

  (6) 市辺押磐と「蘇我氏の祖」

 あとがき

【補講1】「比流王と近肖古王」

【補講2】「壇右槐と伊買」

 (付録)添付系譜一覧

 日本古代史の動因なる「実在者の系譜」復原(2世紀半ば~3世紀半ば)

 日本古代王族の婚姻系譜(1)柿本一征 言語復原史学会正会員

『参考』

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2010年2月20日土曜日

卑弥呼らの情報収集力と行動力の高さ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:6頁


これで帯方郡とは、もと公孫氏の領地だったことがわかる。


それを魏が密かに軍隊を派遣して占領してしまった。


その直後
の景初2年6月に、卑弥呼が派遣した難升米らが訪れて、


帯方郡を占領している魏の太守に、


「皇帝にお目にかかって献上したい」と申し込んだ。


その2カ月後の景初2年8月に公孫氏は滅んだが、


帯方郡はそれ以前に魏のものになっていた。


そこへ難升米らが魏の皇帝のところへ案内してほしいと


訪ねて行っても少しも奇妙ではない。


それを


「景初2年8月より前は帯方郡は公孫氏の領土だったから、


難升米らが訪れた時期は景初2年ではない。


『魏書倭人章』は間違っている。景初3年が正しい」と白石は主張した。


それ以後も複数の学者がこのことで論戦したが、


いまだに結論は出ていなかったのだ。


それがなぜかは、もうよくお判りの
とおり、


『魏書倭人章』だけしか読まずに議論をしていたからである。


また他を読んでいたとしても、


それを関連づけて時間帯に分けて配列しなかったからだ。


キチンと整理すれば、愚かな論争は起こらなかったのである。


これはさらに重要な価値評価の答を教えてくれる。


卑弥呼らの近代的な素早い情報収集力と行動力の高さだ。


白石流の史学では、そんなことも、まるでわからないのである。


*このあとは代講として本学会を代表する


柿本一征正会員の論文(1)をご熟読ください。


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2010年2月19日金曜日

『魏書東夷』全体を通続、時間帯で整理する

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:5頁

この間題は「帯方郡」の支配権が

公孫氏から魏に移った支配史がキーなのだから、

それを整理すればいい。

『魏書東夷』の全体を通読して、関係事項を拾いだして、

時間帯で整理して行くと、次のようになる。

『魏書東夷・韓』  「建安(後漢の孝献帝の年号、196~219年)中、

公孫康が屯有県以南の土地を分けて帯方郡にした」

『魏書東夷・韓』  「景初(魏の明帝の年号、237~239年)中、

明帝は密かに帯方太守の劉昕(リュウ・キン)と

楽浪太守の鮮于嗣(セン・ウシ)とを派遣して、

海を越えて二郡を定めた帯方郡と楽浪郡とを、

こっそり奪い取って魏のものにした。

これは、

もちろん、魏が公孫氏を滅ぼす前のこと)」

『魏書東夷・倭人』 「景初二年(238年)六月、倭女王(卑弥呼)

大夫・難升米を遣わして郡に詣で、天子に詣でて

朝献したいと求めて来た」

『魏書東夷・高句麗』「景初二年(238年)太尉(魏の陸軍大臣)

司馬宣王(司馬懿)衆をひきい公孫淵を討つ

(同年8月、公孫氏滅亡)」

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2010年2月18日木曜日

卑弥呼の遣使は景初2年か3年か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:4頁

こうして細部に神経を集中すると

案外、重要で大きな問題が見落とされていることと、

そこに大きな答えが眠っていることを発見することができる。

今回は、ついでだから、少し文章、文体の問題から離れて、

記事の正確さをどう確保するか、

それにはどうした着眼点があるのか、それをどう整理すればいいのか、

その細部の検索システムと表現方法などを実例をあげてお話することにしよう。

『魏書倭人章』の問題には、まだ未解決のまま残っているものがある。

その中で最大のものは卑弥呼が最初に帯方郡へ遣使したのは、

景初2年か3年かという問題だ。

元禄時代の人、新井白石は

「遼東の公孫淵(エン)が滅んだのは景初2年8月だから、

その2カ月前の2年6月には魏の帯方郡はまだない。

難升米らがそこを訪れたのは、翌3年の6月でないと話が合わない。

魏志の2年は間違いだ」

といい、それ以後、いまだに決定的な結論は出ていない。

これは『魏書倭人章』だけを幾ら分析しても、思索しても答はでない。

どうすれば正確な動かぬ結論が出せるのだろうか?。

それとも在来の諸説のように、みんな反論されて潰れてしまうしかないのだろうか?。

この問題は次のように『魏書・東夷』全体を年代順に整理して編集し直すと、

ごく簡潔に「動かぬ答」が確保できて、決して潰れてしまうことはない。

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2010年2月17日水曜日

「弥」をヤと発音する和訓の歴史

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:3頁

前回の卑弥呼の名のリストとは、

全く別の分野の問題なので前回は載せなかったが、

次にお話しするのは、

卑弥呼とパーリ語が切っても切れない関係にある証拠として、

非常に重要なことなので、彼女の名前を挙げたついでに、

是非お話ししておきたいことである。

パーリ語には卑弥呼の語源であるペマカのほかに、

同じ「愛」を意味する「ピヤ piya」がある。

おわかりのように、

これにも「卑弥(ピヤ)」と当て字ができる。

これは何を意味するか。

「卑弥呼」の場合の「弥」は

miar ミヤ・ミという発音だったが、

この「卑弥」の場合は「弥」は ya ヤ である。

このヤは

我が国では弥太郎や弥次郎兵衛(やじろべえ)といった名に、

当然のこととして普通に使われている。

しかし中国では

漢魏音 miar ミヤ、

隋唐音 mjie ミュェ 

北京音 mi ミ 

広東音 ni ニ で、

「ヤ」などという発音はないから、

「ヤ」は日本だけで通用する日本読み(和訓、訓読)なのだとわかる。

では、そんな読み方がなぜ?いつ?どこで?生まれたか?。

それはこのパーリ語の卑弥呼と卑弥が、

どちらも同じ「愛」を意味しているので、

卑弥をピヤと原語のパーリ語で読んだためだとわかる。

この事実で、この文字がパーリ語への当て字だったことと、

この最古の和訓の1つの誕生が、どんなものだったかを、

詳しく強力に証言しているのである。

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2010年2月16日火曜日

アガフィのかどで

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:31・32頁

古代の沖縄は、東アジアで流通していた貝の貨幣「宝貝」の、

世界一の大産地だったので、たいへん富み栄えていた宝の国だった。

その「宝貝」は中国を筆頭にアジアの全域に、そしてアフリカや南米にまで、

船で大量に積み出され、戻り船はその国々の物産を積んでかえってきた。

それを仕入れにくる船がまた四方から集まってくる。

それもまた近隣からだけではない。

はるかなヨーロッパや太平洋の島々からもやってきていた。

だから小さな島にも都会があって、港にはさまざまな船が、にぎやかに並び、

荷物を積みおろしする人々が雑踏していて活気にみちあふれていた。

クレーンや車が動いているだけの今の港のほうがずっと淋しいほど、

生き活きとした経済の一大中心地だったのである。

ある日、天に向かって指さしているような、

りっぱな柱をたてた大きな船が港についた。

そこからエーノス(ギリシャ人)たちがぞろぞろ降りてきて、

島長(おさ)の家へいった。

日が暮れてもなにか話しあっていたが、くらくなってから船にもどった。

島の子供たちは家にもどったが、

火をかこんで食事をしながら父母は変わった出来ごとを語りあった。

しかしエーノスたちが何をしにきたのかはわからなかった。

だが朝になると真相が判った。

エーノスたちは島長の家の女の子

アガフィ(愛)ちやんを連れにきたのだった。

港へいってみるともう船はいなかった。

そしてその日から可愛かったアガフィちゃんのすがたも消えた。

子供たちは何かもの悲しくて淋しい想いに涙ぐんだが、

日がたつにつれて少しずつ忘れていった。

それはボンヤリした夢の中の出来事といっしょに、

うすれて次第に消えていった。

けれどアガフィの母は、それを忘れることはなかった。

彼女の胸はいつも痛みつづけた。

その痛みは今はじまったことではない。

そのいとし子が生まれてさいしょにその産毛(うぶげ)をみたとき

彼女の胸は大きな鼓動をうった。

それは人びとの誰ともちがって、黄色い金色に輝いていた。

「この子は話にきく白子(しらこ)だわ…?」

彼女の胸は不安に、はげしく高鳴ったのだった。

両親の心からのねがいは、

そのふしぎな髪の毛の色がその子のふしあわせのもとにならないよう、

幸福な子にそだつようにということだった。

でもアガフィはすくすくと成長した。

はじめはイジ悪な子供たちが髪の毛の色がうすいというので

「アワ(淡)フィ」とアダ名をつけていじめたが、

年のわりに大(おお)がらで頭のいい彼女はへいきで、

それに子供たちと遠くまで遊びあるいてもどこにいるかが一と目でわかった。

日にかがやく花のようなきれいな髪のいろが、

あたりを照らすように、

よくめだったから、

いつかみんなのボスのような存在になっていた。

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2010年2月15日月曜日

卑弥呼がもっている名 総検リスト まとめと追加(3)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:29頁

「親子関係」


ワ 前津見      (多遅摩之俣尾 之 女)ヒメ=之女=シメが語源 大隅語

種子島 マタイオン

サキの女サキはサチ→赤幸 津見は出見 Devi 王妃

力 麻多鳥     (但馬の出島の人・太(ふと) 耳(に)の娘)

(大倭根子日子 賦斗迩 孝霊)大山 都根子 彦

Mataion マタイオン ギリシャ語 空しい       タネガ ヒコ


「結婚とソナカの死、その後」

「仲哀天皇紀」

ヨ 気長 足 姫・神功皇后
ソナカティヒメ  ソナカ長老尼

夕    照り tberi テリ 長老尼 パーリ

「仲哀天皇紀」

レ 息長 帯 比売=息長津比売=神功皇后
オキナガ
ウチナ
沖 縄

 「天の稚彦」

 ソ 下照姫  sita シタ 微笑  パーリ

  (シタ 下 bettba へッター パーリ)

  (     大隅語 ヒタ は 下)

 ツ 照姫   their チリ 長老尼 バーリ)

 ネ 馬    kuda クダ 馬  マレー語 (ウマー神に仕える輝く巫女)

 ナ 高姫   一書の誤入

 ラ 稚国玉
 
  
 「天の若日子」

 ム 天照大御神 天のゼウスの大女(ミ)神、大妻(メ)神

   (出見 devi 女神・皇后 パーリ)

 「老 後」 

 ウ 倭 迩迩日百 襲姫   孝霊天皇紀

 ヰ 夜麻登登 母母曾毘売命 孝霊天皇紀

   倭 迩迩日百 襲姫   崇神天皇紀

 これだけの準備がととのって、

 始めて次のようなノンフィクション文学風な論文が書けるのである。

 通俗作家のさく小説との違いをよく判別して戴きたい。

 あなたの研究発表にぜひ活かして戴きたい。

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2010年2月14日日曜日

卑弥呼がもっている名 総検リスト まとめと追加(2)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:26頁

ハ 「天照大神 ゼウスの大神と共に」

照の漢音はゼウで Ζευα はギリシャ語のゼウス神。

ギリシャ語 ama αμα 共に 同時に という意味

しかしこれでは大神は日本語または中国語が混じって、

本来のギリシャ語ではないから、

意味は通じるが不信感が残る。

この「大神」もまたギリシャ語への当て字だったのである。

ギリシャ語 Ακηαια Akhaia     アカイヤ 赤と南を意味する国名

ギリシャ語 Ολνμπια Olympia 古代ギリシャのアカイヤには宗教の中心地

オリンピアがあって、今も遺跡とオリンピックで世界中の人に知られている。

そのアカイヤその周辺には、現在も 

Kato         カトー

Kalavrita      カヴリタ

Killini山      キリニ

Xilokastlon     クシロカストロン

Aiyion      アイオン

Mycenae      ミケナイ

といった地名がある。

このオリンピアは大隅語ではウジンビヤになり、

それを薩摩語では「ウジンミヤ」と発音するから、

これに漢字で当て字すると

「ウ=大 ジン=神 ミヤ=宮」になる。

大神宮とは「オリンピア」への当て字だったのである。

また「ウジ=宇治 ン=の ミヤ=宮」と書けば

伊勢神宮のある宇治山田の

「宇治」がどこからきた地名だったかもわかる。

これで天照大神のもとのギリシャ語は

αμα Ζευα Ολνμπια ama Zeus Olympia

アマ ゼウス オリンピアだったことが完全にわかった。


その証拠が今なお伊勢で使われている「天照大神宮」という名詞で、

それは大隅語や薩摩語に訛る前の古代には、

「アマ ゼウス オリンピア」と発音されていたのである。

さきに大神はパーリ語だとお話しした。

今見た大神は「大神宮」として書かれたものの中の「大神」であることを、

よく区別して戴きたい。

文字は同じ大神でも、2種類の語源があったのである。

これは不思議なことではない。

日本語は従来の説が唱えていたような「孤立語」ではないから、

かなりの包容力をもっている。

特にギリシャ語とインド語とには共通点が多いから、

こうした転用が容易なのである。

それを例えれば方言の中で言葉を選び、

さらに方言化して使っている。

といえる。こうしたことは、全然無縁の言語間では起こらない。

日本語がギリシャ語やパーリ語でできているという証拠だ。

「ウジ」は宇治と書いても迂遅と書いても「ウチ」と読める。

沖縄は「ウチナー」だから、これに国を意味する語尾の「ナ」がついたもの。

ニ 「天照大日霎尊」 ギリシャ語 ama αμα 共に 同時に ハ+ロ

(光り輝く パーリ yasossimant ヤソシマント 八十島)

(光り輝く パーリ akasati アーカーサチ 赤幸 明り射し)赤から発展した語源

(テラ   パーリ tela  テラ 油 大隅語 テジャ) テラス への発展理由

(照らす  パーリ teja           テジャ) テラス への発展理由

(照    パーリ their チリ 長老尼)        テラス への発展理由

 「ソナカとの出会いと結婚」

 ホ 神

 へ 神石  石 パーリ amhan  アマ・アマノ (これはアマを「石」と聞き違えた)

 ト 白石  白 パーリ odata  オダ一夕   (シラは新羅の誤解)

       白 パーリ seta セタ

 チ 比売語曾の杜の神(卑弥呼尊)パーリ pemaka ぺマカ 愛 ギリシャ Αγαπη Agaph

    比売許曾の   (姫木王尊=ヒメキョオソン)

    比売碁曾社(難波・阿加流比売は那覇・大日霎 豊国は ホ=百・穂・日)

 リ 赤絹      (新羅人が奪う。取られたのは村人)

  (赤 阿加流比売のことを誤解)

  (赤幸 パーリ akasati アーカーサチ 光り輝く)

 ヌ 赤織りの絹    (新羅人は王子自身の話)

   アカリ=   阿加流  明り

 ル 赤玉       (新羅に阿具奴摩という沼)
                クヌマ→クルマ→高句麗

    玉 パーリ gula グラ (Sk.guda グダ)

      パーリ mani マニ       クダ
            (グラは大隅語クダ、下、馬、玉が混乱)

 ヲ 阿加流比売    (オ大 力日 ルメ 流 売 霎)

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2010年2月13日土曜日

卑弥呼がもっている名 総検リスト まとめと追加(1)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:23頁

ではこれで正確な「卑弥呼の生涯」の描写ができるだろうか?。

まだまだそうはいかない。

ではどれくらいの調査が必要か?。

それは一つずつ説明していたのでは容易なことではないから、リストにしてご覧にいれよう。

出先点   原語                   訛り           意味   転訛

ギリシャ語 Αγαπη Agaph アガペ→沖縄語 アガフィ 神聖な愛 アカヒ 赤日

大隈語 アカイ  明り   アカシ 明石

薩摩語 アケ   赤・朱  アケヒ 安芸

パーリ語  pemaka                          ペマカ  愛       卑弥呼

中国語                    アイ   愛 薩摩語エ   藍・可愛

ギリシャ語 Ακηαια Akhaia       アカイヤ 赤と南を意味する国名

オリンピア Ολνμπια Olympia   古代アカイヤには宗教の中心地オリンピアがあった。

周辺にはKato,Kalavrita,Killini山,Xilokastlon

        カトー   カ ラ ブリタ  キ  リ ニ 山 クシロ カ ストロン

Katakolon,Aiyion,Mycenae,

                                              カ タ コ ロ ン アイ オン ミケナイといった地名がある。

応神天皇皇居 軽の宮 は 日本語     アカルの  アカイミヤ への当て字

         阿鹿児之国 明  御家

軽の宮 は           ×カゴシマ アカイ ヤ

         カゴシマ 明  宮



イ 「卑弥呼の語源」 

パリー語の「ペマカ 愛、慈悲」をもとにギリシャ語を探すと同じ意味の聖なる

「愛」は「アガペ」だが、これは沖縄語では「アガフイ」になる。 

その発音は前記リストのように、

大隅語、薩摩語、標準語と次々に靴化(てんか)するにつれて、

生まれた新しい発音が全て日本語として意味をもつうえに、

日本の建国史に直結する地名などとして生きている。

これは彼女の幼名が間違いなくギリシ語の

Αγαπη Agaph アガペだったことが

真実だという不動の強い証拠である。

ロ 「大日霎貴」

(阿加流比売  大 日 流 比 売)

ウ カ ル ヒ メ

大 日 霎 (霊女) 貴


「ナムチは悪魔」

これを在来の学者は理由もなく、

「オオヒルメノムチ」と読み、そう教え続けて平気でいたが、

その理由は「大国主=大汝持 オオナムチ」の語尾の「ムチ」を、

「敬称語尾」と信じこんでいて、

それと同じものだから「貴」も「ムチ」と読むのだと

江戸時代の説に疑問ももたなかったお粗末な状態だったからだ。

すでにご存じの通り、肝心の論拠であるその「大汝持 オオナムチ」は、

日本語ではなくパーリ語の名詞で、ナムチは敬称語尾どころか、

「悪魔」と罵倒する蔑称語尾だった。

では「大日霎貴」の貴は一体なんだったのであろうか?。

これはウカルヒメキと読んでもオオヒメキと読んでも同じで、

「ヒメキ」は「姫木」にぴったり合う。

「姫木」は卑弥呼「ヒメコ 姫木(コ)」と呼んだ

後世の大隅人の当て字だから呼び捨てで、絶対に敬称ではない。

だから、それが老卑弥呼政権が崩壊したあとの名詞なら、

在来説通り「ムチ」と発音すのだと仮定しても、

「ナムチ」は「悪魔」という蔑称をつけられていることになる。

それを「ムチという敬称だ」という全く反対の解説は絶対に容認できない。

どうしてもそれは敬称だとするのなら、

もう一つの仮定として、

伊弉諾(イサナキ)の尊・伊弉冉(イサナミ)の尊の敬称語尾「キ・ミ」の

うちの「キ」と「貴」は同音になる。

だがこの場合は疑いなく「キ」は男性語尾である。

「オオヒルメ」は逆に女性であって、

この場合は老卑弥呼を指す名だから絶対に男性ではない。

この敬称説もまたどう工面してみても成り立たない。

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2010年2月12日金曜日

語源はパーリ語のウッビラービか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:22頁

しかしこれで終りにしてはいけない。

それはパーリ語にもこの大日霎の貴にピッタリ合う

「ubbilavi ウッビラービ 幸福・歓喜」という言葉があるからだ。

それが全く無関係だとは言い切れない証拠として、次の比較リストをご覧にいれる。

パーリ語 幸福・歓喜

ubbilavi ウッビ ラービ十女(メ)→幸福姫・歓喜姫

         大 日 螺 美

                    ウフヒ ル ミ   沖縄語

                    オオヒ ル メ   本土語

                    大 日  霎    当て字

                    オ カ レヒメ   本土語

                    大 日 流比売   当て字

                    オ   ルヒメ   本土藷

                    阿 加 流比売   当て字

ア カ ルヒミ   沖縄藷

  明    姫     当て字

こうみてみると、確かにパーリ語が語源のように見える。

このウッビラービのほうがギリシャ語のアカイヤより、

はるかに大日霎の貴にピッタリ合って見えるからである。

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2010年2月11日木曜日

驚喜した光華明彩は今も『金髪』珍重

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:21頁

私がいうのは今の世界がグローバル化に進んでいるから、

私たちの祖先がギリシャ人だと主張しようというだけはない。

それはこんなに明らかな証拠群を揃えているから、

私たち自身が正確な史実を知らなければ、

余りにも情けないし、先祖たちにも申し訳ない。

それを妨害ばかりしている連中に憤(いきどお)りを

感じているのは私たちだけではない。

その先祖たち自身が最も激しく怒(いか)っているのだ。

と訴えているのである。

だが本題に戻ろう。

こうして卑弥呼らが、明確にギリシャ人だとわかると、

その誕生の際に、父母が驚喜したほどの

「光華明彩」が『金髪』のことだと確実にわかるのである。

それはこれまで、すでに詳しくその理由をお話したからもう繰り返さないが、

多くの文献が、ギリシャでは古来、金髪を珍重した。

それは今でも変わらない。

という事実を教えている。

つぎはパーリ語とは無関係か、調べてみる必要がある。

卑弥呼が君臨する前には、

間違いなくギリシャ人の君臨する倭人圏が実在していた。

卑弥呼自身もその巫女として働いていた。

しかし女王に推戴された後は、間違いなく仏教化して

パーリ文化が花咲いていたからだ。

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倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:20頁

これで、卑弥呼が生まれたときにつけられた名は、

絶対に大日霎貴ではなかったことが、

確認できた。

もう間違いを犯す危険はない。

それと同時に、古文献は貴重な史料ではあるが頭からウ飲みに丸々信用はできない。

こんなふうに徹底的に確かめてから、確実なデータだけしか使えないのだ、

ということもわかった。

それにもまして、動かなくなったのは彼女たちの血族が、

やはりギリシャ出身だという確証がえられたことである。

これまでも繰り返しお話してきたが、

アカイヤはギリシャの最南端、地中海に面した暖国で、

まさに九州における鹿児島県の位置にある。

さらにいえば北端にクロアチアのある現在のギリシャ周辺の『四神』式国家配置と、

高句麗を北端とする当時の倭人圏とは、さらに完全な一致を見せているのである。

(北)  
       クロアチア

(西)シラクサ←ギリシャ→アイオリヤ(東)

         アカイヤ
(南)

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2010年2月9日火曜日

「大日霎貴」とはアカイヤ王という名乗り

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:19頁

 こうして短く簡単に比較すると、どんなに名文で長々と説明するよりも、

 遥かにはっきりとよくわかる。

 論文は文章だけではいけないという教訓でもある。

 それが明瞭に教えているのは、軽も明の宮も鹿児島も大日霎貴も赤子も、

 皆んなただ一つの国名・アカイヤに対する「当て字」だったという事実である。

 国名だから当然「名乗り」にも使われる。

 いま問題にしている「大日霎貴」もまたその名乗りの一つにすぎず、

 それは鹿児島神宮のある隼人町の女王になるまでは生まれない名乗りだから、

 「種子島にいたオオヒルメという女の子が、海を渡ってきた」というのは錯覚で、

 それは彼女らの幼名ではない。

 その代わりアカイヤと呼ばれ続けていた都に君臨した卑弥呼も壹與も、

 二人とも、この名乗りで呼ばれることになる。

 だから複数のオオヒルメがいても不思議ではない。

 伊弉諾尊・伊弉冉尊2尊が生んだ大日霎貴は卑弥呼で、

 『大隅正八幡縁起』の大比留女は壹與なのだと確認できる。

 これによっても、

 『魏書倭人章』の記録が卑弥呼と壹與の2女王の存在を書き残したのが、

 動かない事実だったと確認できた。

 それはアカイヤと呼ばれた鹿児島以外の土地では、

 絶対につけられる事のない名乗りで、

 邪馬台国大和説などがどんなに間違っているかという、

 動かない大きな証拠の1つなのである。

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2010年2月8日月曜日

『大日霎貴』とは何のことだったか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:18頁

だから『古事記』の序に、

稗田阿礼(ピューティヤ)が記憶していて物語ったものを文章にした。

と書いてあるのは事実だったのだ。

『記・紀』の当て字の発音に違いがあれば、どちらかが間違っているか、

見つけ出して訂正する必要がある。

すると次のような重要な手掛かりが見つかる。

大日霎貴は、これまで「オオヒルメノムチ」と発音するのが正しいと教えられ、

戦前には読み方を変えることなど絶対にできない神聖な「神名」だ。

とされてきたものの一つである。

次の比較は、もうよくご存知の、応神天皇の皇居があった地名の謎解きである。

軽 島  明   宮

カルシマ アカル ミヤ

鹿児之国 阿鹿児 御家

カゴシマ アカゴ  ケ

鹿児島  赤 児  キ(ケの沖縄発音)

大日霎  貴

オカル  キ(阿鹿児 家)

(都と祖先の出身地の名)鹿児島  アカイ ヤ (明る家)南九州語

アカイヤ
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2010年2月7日日曜日

『記・紀』の当て字は筆者の思いつき作品

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:17頁

卑弥呼をヒロインにして小説のように論文が書けるか?考えてみよう。

実例をご先にいれながら何が必要か具体的に検討して進むことにする。

これまでお話しした確定的なデータを使って、

卑弥呼の誕生から描いていくと、どうなるか。

まず名前が問題になる。

講義録31で詳しくお話ししたことがここで役に立つ。

彼女が生まれた時につけられた名は、

ギリシャ語の agape で沖縄ではアガフイと訛った。

その意味は「(聖い)愛」のことで、今も人気のある「愛ちゃん」だった。

このアガフイが、

大隅語でアカイ・

薩摩語でアケ・

標準語アカ・

種子島語アーイと変化するにつれ、

様々な言葉や地名を生み出したことも、リストにしてご覧に入れた。

彼女のいちばん最後の名である卑弥呼という当て字も、

この愛の名が生んだパーリ語のペマカに対するものだったことも、

もうよくご存じの通りである。

そのときお話しできなかったので、ここでつけ加えるのは、

その他の彼女の名乗りについてである。

「崇神天皇紀」に倭迹迹日百襲姫、

「崇神天皇記」に夜麻登登母々曽昆売と書き、

「神功皇后紀」には気息足姫

「神功皇后記」には息長帯姫と書かれている。

一見してわかるとおり、

これらは全て、

『記・紀』筆者の思いっきによる当て字にすぎず、

本人が使っていた文字ではない。

当て字が絶対的なものでないとわかる良い証拠である。

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2010年2月6日土曜日

卑弥呼が体験した運命の宗教遍歴

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:16頁

これを整理すると、卑弥呼の宗教史がわかる。

彼女はまずギリシャ宗教のピューティアとしてゼウスに仕えたが、

ソナカと結婚して仏教徒になった。

それでも「天照」が個人名か肩書のように残った。

その名で父母の伊弉諾尊(イサナキ)尊・尊(イサナミ)2尊が

彼女を天に送ったという記事の真意がわかる。

天は大天(ウティナ)で沖縄(ウティナ)本島。

そこにあったゼウス神殿に仕えさせたのである。

彼女がソナカと結婚して仏教に改宗した経緯は

蘇那曷叱智(ソナカしち)の話などととして

崇神・垂仁両天皇の記事に入っており、

その夫が若死にしたために、女王になった筋道は、天の若日子の記事と、

仲哀天皇と神功皇后の記事とを総合すると、実に詳しく読み取れた。

その後の経過も本講で詳細に確かめて確認してきたので、よくご記憶だと思う。

このようにして、書こうとする対象を取り巻く諸条件を、

正確に確保した上で執筆にとりかからないと、幾ら急いでも何にもならない。

訂正ばかりしていたのでは信頼を失い、学者生命にも陰を作る。

功を急ぐことはない。

これから例としてご覧にいれるものには前もってこうした配慮がしてあるから、

確信のある著述ができるのだということを理解し、記憶しておいて戴かねばならない。

史学では、あやふやなもの、曖昧なもの、想像にまかせたものを発表することは、

自殺行為である時代がきているのである。

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2010年2月5日金曜日

鬼道の喪屋から伊勢神官まで一貫した御霊屋(みたまや)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:15頁

この伝統が受け継がれたものが、現代の靖国神社であり、

菅原道真を祭る天神社や各地の祖霊神社であって、それは死者の御霊屋(みたまや)である。

天空や太陽や月を祭るギリシャ宗教やヒンヅー教でもなければ、

エホバやアラーを崇敬するユダヤ教やイスラム教とも全く異なるから、

在来よく言われてきたユダヤ教だというような説は、余りにも幼稚なのである。

この「死者の御霊屋(みたまや)」は、天の若日子が死んだ場面に「喪屋(もや)」として出てくる。

アレクサンドロスに対する当て字の名「阿遅志貴高日子根の神」が斬り倒した小屋である。

彼は当然ギリシャ宗教の信者だから、彼が斬り倒した理由は、

今なお「下照姫=ゼウスのしもべの姫」と呼ばれている下照比売(卑弥呼)が仏教へ変節して、

そんな葬儀を行なうことが許せなかったためであって、

ギリシャ教と仏教=鬼道の争いが寓話化されているのである。

世上一般の神道は後世に多くの行事をもつようになるが、

そこにはインドからネパールやブータンに今みるヒンヅー行事が、様々な形で加わっている。

それは卑弥呼以前に日本列島に入って来た西方文明そのものではない。

奈良時代から天平時代に輸入されたシルクロード経由の文物と同じく、

それらは現代の航空機や鉄道、テレビ、携帯電話のような外来文明でしかない。

時代差を無視して混乱しないように注意がいる。

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2010年2月4日木曜日

大神様はukkamsa「卓越した」への当て字

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:14頁

 神とは、人間に真似のできない優れた能力をもつもの、

 という意味をもつ呼び名である。

 辞書ではそれを「卓越した・優れた」と書く。

 この「卓越した・優れた」をパーリ語では、 ukkamsa という。

 これを「ウッカンサ」と発音すると、

 南九州語のわかる人は「大神様」と受けとる。

 「天照大神様」とは、「卓越した、天のゼウス」という意味の称号を、

 「天照・ウッカンサ」と発音して、漢字で適当に当て字したものだったのである。

 だから大神はシンドゥなどの神を意味しない。

 それは『記・紀』を漢文で書くのに必要な当て字の工夫から生まれた、

 当時のさまざまな言語の単語を混用した表現の一つであって、

 そんな名の神が実在したのでも、信仰されていたのでもない。

 その証拠は伊勢神宮である。

 そこに祭られているのは卑弥呼と壹與であって、

 彼女らが信仰していたゼウスでも釈迦でも観世音菩薩でもない。

 だから天照大神という神は卑弥呼であり、

 豊受大神は壹與であると、決定されているのである。

 皇太神宮の信仰対象は私たちの祖先であって、

 観念上の存在でしかない信仰対象のゼウスや観音でもなければ、

 偉大な哲学者として崇敬する釈迦でもない。

 あくまで実在した祖先たちの霊なのである。

 それが帯方郡使が見た「鬼道」の実態であり、

 詳細に記録された仏教式葬儀が証言する

 「卑弥呼の宗教」の中身なのである。

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2010年2月3日水曜日

言語復原のない史学など考えられない時代に

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:13頁

漢魏音でイエッだった「壹」は、

広東までいくとヤッになり、二はイ、五はングになってしまう。

イチ、ニ、ゴと発音するのは、その中間に位置する古い呉音なのである。

これまでは歴史人物の名は、固有名詞だとして、

そのまま使うのが当然とされてきた。

しかし壹與・伊支馬に使われている「壹」一字でも、

こんなに多くの情報と証拠をもっているのである。

言語復原のない史学など考えられない時代に入っていることを、

改めてご確認戴きたい。

「ナーヤ」という現在使われている種子島語の存在によって、

パーリ語はさらに日本語に間違いなく入っているという動かない確証を加えたから、

パーリ語なしでは真実が掴(つか)めない重要名詞の例を、

もう一つご覧にいれておこう。

それは天照大神などの「大神」である。

これは文字どおり「偉大な神様」という意味だとして

固有名詞なみに無説明のままで現在まで来ている。

天照は「天のゼウス」に対する当て字だったことは

本講でご理解いただいたが、

「大神」は神に対する敬意をこめた大がついているだけで、

「神」という代名詞に過ぎないと誰もが思って済ましていた。

しかしそれが、仏教用語のパーリ語だったとすると、

仏教では神は排斥されるか、

従属させられているのだから、神に「大」の敬称を使うことはない。

それは一体なになのか?。

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2010年2月2日火曜日

ギリシャ人はどこから来たか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:12頁

ここで私たちは、もう一つ重要な「証拠」を

手に入れていることを見落としてはならない。

それは魏の発音なら「イエッ」である「壹」を、

当時の倭人たちはその魏音通りに発音せず「イチ」と発音して、

壹国を「イチマ=伊支馬」と発音している事実である。

この「イチ」は、中国北方の漢魏音に対立していた

南方音の呉音(ゴおん)なのである。

これは魏の強敵、呉の国の言葉だから、

張政が呉音を知っていたら気を悪くするぐらいでは済まない。

だが幸いに、彼はそれに気づかず単なる官名として、

固有名詞扱いされてすんだ。

その報告を読んだ魏政府の役人もまた気づかずに、

そのまま現代まで変更されることなく残った。

そのお陰で私たちは、

位宮や壹與たちが呉を経由して沖縄地方に移住してきた

ギリシャ系ウースン人の子孫だったことに確信がもてたのである。

それは大隅から奥州に至る我が国の多くの古い地名や姓が、

そのウースンを意味している事実を知っているだけでなく、

幼い天照大神の『光華明彩』が、照り徹(とお)したと

「記・紀」が書く「六合」までもが、

呉の時代の名残を今に残す県名として実在する事実を知っている。

六合は現在でも我が国に地名・姓として現存しているが、

その発音は多く「くに」である。

「くに」は母国・故郷のこと。

忘れ難い故郷は呉の六合だと今も歌い続けているのである。

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2010年2月1日月曜日

日本の史学の実態を暴露した当て字

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:11頁

だから「邪馬壹国」は他の官名や地名と同じく、

帯方郡使の張政がつけた「当て字」で、

そんな国名をもった国が実在していたのではない。

それは正確には「伊江津(イエッ)国」だつたのに、

張政が「間違えて」、

「壹国」と書いてしまっただけの、

幻のような国名にすぎないのだ。

だからその時、

張政以外の帯方郡使がやつてきていたら、

「伊江津(イエッ)国」などと、

別の当て字が使われていたはずで、

壹の字が使われていなければ、

それを「臺」の字の間違いだなどと想像する者も出現せず、

その邪馬臺国畠を戦後の略字遣いにした

「邪馬台国」などという空名が一人前の顔をして、

まかり通る現状など考えることもできない。

かつて「邪馬台国はなかった」という本が出たことがあるが、

それは「実在したのは邪馬壹国だから邪馬台国は間違いだ」という説だったが、

その説も根本的に間違っていて、

正確には「邪馬壹国はなかった」のほうが正しい。

こうわかってみると、

これまで卑弥呼時代の国名として当然のように

「邪馬台国の女王・卑弥呼」などといってきたことが、

どれくらいオカシイか言い尽くせない。

実在したのは「邪馬(ジャマ)伊江津国」だつたのだから、

それが沖縄以外にない伊江島のこととわかれば、

どんなに初心者でも、

故事つけの名人でも、奈良にあったなどとは想像することはない。

張政の一字が日本の史学の実態を暴露して見せてくれたのだ。

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